事件の要因

それでも殺されました

所薫子

 神戸地裁の傍聴席、裁判官は淡々と吐き捨てるように「棄却」と言った。理由は「教育的配慮」ということであった。
大阪高裁の傍聴席、裁判官はそこでも「棄却」と言った。「校長の裁量の内」と言った。私は、席に座ったまま、心の中で(それでも僚子さんは、殺されました)と呟いた。あれから十年以上の歳月が流れたが、その言葉は少しも変らない。むしろ深く低い声で、はっきりと「それでも僚子さんは、殺されました」と呟いている。
 明石大蔵海岸での事件に対して、市は非を認める発言をした。事件が起きたのは、僚子さんの事件から十年後である。
 僚子さんが教師の閉めた門扉に殺される日まで、何度も高塚高校では、学生たちが鞄を挟まれたり、スカートを挟まれたりしていた。職員会議でも何度も取り上げられながら、カウントダウン門扉閉鎖は、取りやめられなかった。その頃同じような門扉の構造の学校はいくつもあったであろうし、同じようなことが、起こっていたであろうと考えられる。一学校の一教師による一生徒の問題では無いはずである。僚子さんの死によって命拾いした子どもたちも大勢いるはずだ。運命の分かれ目か。
 遅れまいと来てくれる学生に対して、締め出すとは、通常のサービス業では、考えられない。何をどう考えれば、そのような結論に達するのであろうか、手荒な感じがする。示しがつかない?遅刻者が続出する?「それがどうした」と私は、言いたい。教師の立場でないからそういうことを言うのだと言われるかもしれない。私は、民営インストラクターになって、20年以上になる。何分遅れようが、笑顔で迎え、早退ももちろんOKである。観覧席からは、常に親や親族の沢山の目、眼、め、である。
 1990年7月6日8:30 兵庫県立神戸高塚高校通用門の門扉は、カウントダウンされて、一刻の狂いも無く「ガチャン」荒々しく閉められた。その日、神戸市営地下鉄は3分の遅れがあったという。西神中央駅から学校までの歩道は、学生で埋め尽くされる。徒歩で10分ぐらいの道のり••自分だけ走り抜けようとしてもできない混み方である。ましてや3分ぐらいは、通常の遅れ内で、証明書さえ出ない。学生たちは、3分遅れて着いたことさえ知らずに、流れの中を歩き続ける。これも運命だったかも知れない。常日頃から遅刻常習学生は、門扉が人の生命もお構いなしに閉められることを知っていて、飛び込むなんて無謀なことはしなかった。それを知らない僚子さんは、飛び込んだ。僚子さんにも非は、あったかも知れない。
 不幸にも学内の事故で亡くなられた学生はおられる。けれど遅れまいとして飛び込んだ学校に、教師が閉めた門扉に挟まれて死んだ学生は、地球上に無いはずだ。
 教師の心無い言葉や視線、無視で殺される子どもたちは、ゴマンといるだろう。それもあってはならないけれど、生命を教師の手で断つとは決してあってはならない。
 1990年神戸は、公立中学丸刈り強制が自由になった所とそうでない所と入り乱れていた。長男は新設公立中学に1988年入学。学校に決まりも制服もできていなかったが、不思議と男子の丸刈り強制だけが存在した。入学式の日、小学校の頃からの自由な髪で登校した男子生徒が36名。入学式の朝、情報を嗅ぎつけたマスコミが殺到した。上空にはヘリコプターが不穏な爆音を撒き散らしていた。入学式は、体育館の鉄の扉が閉められ異常な中で、執り行われた。その後の入学説明会で、丸刈りだけが決まりとしてあることが校長から発表された。次の日自由な髪型で登校したのは、数名。その後、学年集会の度に「丸刈り強制」暴力教師と合わせて、洗脳され、最後まで残ったのは、3名であった。
 その頃の学校内の様子を匿名の声欄が取り上げてくれた。今は、朝日東京本社の論説委員になられている川名紀美さんである。その時、大阪本社におられた。子どもを人質に取られている親にとって何ともありがたいコーナーであった。子どもには、危険が迫ったら大声を上げながら逃げておいで、丸刈りにしたかったら何時でもしていいよ、と言っていた。けれど、自由の好きな長男は、自由な髪型で登校できることが閉鎖的な学校生活の中で唯一風穴になっていたような気がする。10年は、変らないと言われていた丸刈り強制が全市的に自由になった。国際都市神戸のほんの10年前の話である。(この原稿を書いた直後に川名紀美さんから大阪に戻られた連絡を受けました。現大阪本社)
 学生の頃、教護院の一歩手前という養護施設で2週間泊り込み実習をしたことがあった。園長は、校長の天下りで、子どもたちは、暴力を受けていると言っていた。登校時、その日は、病院に行く予定になっていたギブスをした中学生の男の子がいきなり園長から殴られた。私は茫然と立ちすくみ、園長を止めることすらできなかった。卒業式の日、どこからともなく、卒業する中学生の親が子どもを受け取りに来た。卒業すれば、働き手として、収入が得られるからと教えられた。担当の部屋の室長だった子はポツリ「僕と妹は、2回も親に捨てられたんだ」と言っていた。現在、養護施設は、親の暴力、虐待から守る為に入所してくる子が多いと聞く。生まれてくる子どもたちは、親を選ぶことができない。運命。
 次男の同級生が、20歳の時自死した。その子が小学生のある時、次男が「お母さんにサンドバックのようにボコボコに殴られて、紫色の顔で学校に来てん」ということを言っているのを聞いたことがあったが、15年以上も前、その頃は親の虐待という話題も無かった。大げさに言っているのだろうぐらいにしか、気にとめなかった。次男は自死を聞いて、親の虐待が原因のひとつだろうというようなことをこぼしていた。20歳の自死を虐待死とは、統計上は記録されないであろう。
 1990年7月6日8:30 鉄の230kgの門扉は、一教師の手によって動かされた。門扉が勝手に動いたわけではない。ひとつの尊い生命が門柱と門扉に挟まれて、頭蓋骨骨折、血痕が教育的配慮で流され、証拠隠滅され、教育委員会に打診がされ、病院へ運び込まれた。それは、たまたま偶然に起こった、起こりうる運命の線上だったのかも知れない。
 それでも私は、殺されましたと呟く。そして、門扉を押した教師の後ろには、私がいました。直接手を下してはいないけれど••••「それでも私は、殺しました」。
 門前追悼に参加するようになって、12年の歳月が流れた。10年間は沈黙を守ると決め、いつも後ろの方から見ていた。思い出せば、その過程で『追悼』は運動ではないということを僚子さんに教えられ、導かれた気がする。これからも導かれる気がする。

Sponsored Link

続きを読む

Sponsored Link

Back to top button
テキストのコピーはできません。