『ふたつの震災』その後【第1回】遠く離れた町で逝った娘へ

藤田敏則さん英美さんご夫妻は、神戸高塚高校門扉裁判のメンバーであり、『生命の管理はもう止めて!』の最初からの会員でもあられます。西宮で阪神•淡路大震災にも被災され、この度の東日本大震災では、陸前高田市に嫁がれた娘さんを亡くされました。
『現代ビジネス』の取材に応えられた2013年3月26日、メールマガジン原稿の一部を藤田敏則さんのお許しを得て、松本創さん(ライター)の了解を得て掲載させていただきます。
藤田敏則
津波の猛威を物語る陸前高田市民会館(2012年9月撮影画像)
”朋さんと一緒にここへ逃げ込み、奇跡的に助かった職場の先輩の記憶によれば、朋さんは2階から3階へ上がる階段の途中で津波にさらわれたらしい。
小高い山の上にあるその場所からは、気仙川の河口と広田湾が正面に見下ろせた。あの「奇跡の一本松」も立っている。
7万本の松原で唯一残った松は枯死してしまったが、復興のシンボルとして復元作業が進む。完成を目前にして、枝葉がもとの角度と異なることがわかり、市役所が作業のやり直しを指示したと、ちょうど昨日のニュースになっていた。
「あれやね。ここから見てもあんまり違いはわからんけどなあ」
一本松を指さして、小さく苦笑した後、藤田敏則さんはつぶやいた。
「ここ、いい場所でしょ。高田の海も川も全部、向こうの広田のほうまで見渡せて」
総門も本堂も大津波に流されて跡形もなく、裏山の急斜面に張り付くような墓地が残るばかりだ。墓は斜面の上りきったところにあった。29歳で亡くなった藤田さんの長女、菊池朋さんが眠っている。
”湾を挟んで対岸に見える広田半島の大陽崎と呼ばれる岬付近で、朋さんの遺体は見つかった。東日本大震災から17日後のこと。津波が襲う直前に駆け込んだ市民会館から6kmも離れた海の中だった。
兵庫県西宮市で育った朋さんは、大学で知り合った陸前高田出身の男性と結婚し、この町に来てまだ2年足らずだった。結婚半年後には、社会福祉士として地域医療に携わってきた経験を生かして市職員となり、高齢者福祉を担当した。
故郷を遠く離れて築き始めた新しい家庭、仕事、地域のさまざまな行事や人びととの付き合い。この三陸沿岸の町に、これから本格的に根を下ろしていこうとした矢先だった。
藤田さんにとって、この1年は、自分の気持ちと周囲の日常との距離がどんどん開いていくことに戸惑い、悩み続ける日々だった。被災地を遠く離れた遺族には、体験を共有し、痛みを分かち合う相手がいない。
1年目の3月11日までは、なんとか走り続けていられた。朋さんや嫁ぎ先の法事をはじめ、やるべきことはたくさんあり、6月からは「けっぱれ岩手っ子」というボランティア活動を始めた。岩手県内の被災地を回って子供たち向けのお絵描き会を開く、いわゆるアートセラピーである。
阪神•淡路大震災の直後に友人の画家たちと行っていた活動を、今度は娘がお世話になった岩手のためにと、現地のNPOやスタッフの応援を得て、53ヶ所で開いた。1800人の子供たちが参加し、9月には大船渡と盛岡で作品展を開催した。
被災地へ何度も足を運び、沿岸部を行き来した。西宮へ戻れば勤めがあり、その合間にも種々の連絡調整に追われた。さまざまな仕事を自分に課し、没頭することで、気を紛らわせていた面もある。
「忙しく働いているうちは、現実と向き合わずに済んだ。でも、ボランティア活動が一段落し、娘の一周忌も終ると、岩手に行く回数が減り、こっちの”日常”に戻らないといけない。その頃から心が不安定になってきました。周囲の空気と自分の気持ちの折り合いがつかない。感情をしまい込んで、まったく普通の生活をするのが辛くなってきて••••」
「節目」や「区切り」は、災害の記憶を語り継ぎ、被災地への関心を呼び起こすうえで大切なことではあるが、一方で、当事者にとっては残酷だ。「もう1年経ったのに」「復興へ歩き始めた人もいるのに」という視線を、どうしても生む。悪意や非難ではなく、善意からの励ましであったとしても、あるいは直接言葉にしなくても、「立ち直り」や「前を向くこと」へ追い立てるような空気は無言の圧力となる。
「分骨してないから、あの子に会うにはここに来るしかなくてね。でも何か一つ手元に置いときたいと思って、知り合いの仏師に小さな観音像を彫ってほしいと頼んだんです。つい数日前に完成図面が届いたんやけど、これがすごく可愛らしい、子供みたいな顔でね。お腹の赤ちゃんのイメージも併せて描いてくれたんやって」
朋さんは妊娠4ヶ月だった。娘と夏の終りに生まれてくるはずだった初孫を喪ったことを、藤田さんはまだうまく受け入れられない。朋さんのことが「過去」になり得てない。
「こっち(関西)で生活していると、もう誰も東北のことなんか関心なくて、地震や津波なんか、まるでなかったみたいな空気でしょう。でも高田に行ったら町がまるごと被災地で、僕と同じような立場のご遺族がたくさんおられる。向こうでの娘の生活を知っていてくれる人もいる。だから、あの何もなくなった高田の風景の中にいるほうが気持ちが落ち着くんです」
阪神•淡路大震災の激甚被災地であり、震災関連死も含めて1146人もの市民が亡くなった西宮市にして、そういう状況なのだ。ましてや、「震災」をリアルに想像しにくい土地で避難生活を送る遺族や被災者はどんな思いを抱えているだろう。私たちの見えないところに、どれだけの悲痛が沈んでいるだろう。
被災地の外ばかりではない。抱える思いのギャップは、被災地の中でも生じている。家や仕事を失くした人もいれば、身の回りに大きな被害のなかった人もいる。親や子を喪って悲嘆に暮れる人もいれば、家族の行方がまだわからず、悼むことすらできない人もいる。
何年経っても、いくら「復興」が進んでも、取り残されていく人たちはいる。それは、まだとても復興などという段階ではない陸前高田でも、18年経って震災の痕跡がほとんどなくなった阪神•淡路の地でも、同じことだ。
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