兵庫県立神戸高塚高校校門圧死事件
グループの名付け親として

公庄れい
高塚高校のあの事件が起こった時、私は来るべきものが来たと感じた。私の第一子は1958年生まれ、第二子は1961年、第三子は1962年三人とも地元の公立中学校へ通ったがわずかこの3•4年の間に学校はすっかり変わってしまった。1973年上の子が卒業し、中の子が入学した頃から学校がつまらない規則を作り始め下の子が卒業する頃にはズボンのベルトまで決める馬鹿らしさであった。新学期の家庭訪問の時にはどうしてこんな下らない事ばっかり決めるのと私は先生に文句ばっかり言っていた。
それから数年たった頃お隣の奥さんが、もう学校がうるさいので困るわとグチられ、この間靴を洗ったのでちょっと線の入った靴を履かせて行かせたら電話で学校へ呼び付けられて今すぐ決められた靴に履き換えさせて下さいっていうのよとの事。有無を言わさずとにも角にも子供達を管理しなければならないというヒステリックなまでの学校と言う名の閉鎖社会。ここから高塚高校のあの事件までは一直線である。そして恐ろしいのはそのことに気づく人の少ないことである。
大東亜戦争下の国民学校生であった私は管理の怖さが骨身にしみているので「生命の管理はもう止めて”」という叫びが自然に飛び出してきたのである。この頃よく報道される管理の究極のような朝鮮人民共和国の状態が私の子供の頃の日本にあまりにも似ているのに驚きながらこのグループの健在を祈っている。
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