文化•生活•芸術

“けっぱれ岩手っ子” 東北での移動お絵描き会 No.Ⅱ

藤田敏則

 9月中に展示会を開催するには時間が残されておらず、MNにも会場の確保に動いてもらうべきではと考え、代表理事の佐藤氏に面談を求める事にしました。お絵描き会の活動主体をMNに委ねようとした当初の計画を断念した6月下旬以来、髙橋君とは絶えず連絡を取り合うも、事務局とのパイプ(この時期、豊田氏は家内取り込み中で活動中断)が無い状態でした。8月21日、新花巻から遠野に直行、展示会場の件で佐藤氏に協力を要請、快諾を得る。翌22日、MN事務局の川邊氏を伴い盛岡にとび、SAVE IWATEの木津川氏の働き掛けで、展示会場への利用承諾が得られた商業施設クロステラスの下見をする。子供が描いた絵を見る為に家族以外の者がわざわざ会場に足を運ぶのは稀であり、大勢の人の目に触れられるこうした商業施設での展示は最も相応しい場所でした。但し、クロステラスで一度に展示できる絵の数は、どうみても300点位であり、数回に分け夜間に展示替えを行おうにも、そのための要員が手配できない以上、断念するしかありませんでした。その日の午後、もう一ヶ所候補に挙がったしないの肴町商店街を下見するも具体的な展示方法が見出せず、何の進展もえられぬまま遠野に引き返す。明日からは宮古市でのお絵描き会の予定を組んでおり、川邊氏をMNに降ろした後、一人で川井キャンプに向けて車を走らせる。
 8月23日、昨夜の内に募っておいたボランティア二人を伴い宮古の花輪保育所に赴く。既に地元の協力者二人も待ち受けて居られ、子供達との楽しい時間を共にすることができました。午後は山田町の大浦保育所にてお絵描き会を済ませた後、川井キャンプへは18:00に帰還、ボランティアの二人を降ろし、急いで遠野に向け車を走らせる。事前に髙橋君から活動報告をMNの夜の会議でするべきですと助言があったのです。MNのボランティアが参加しない活動までも報告する義務があるのか疑問に感じつつも、これまでMN事務局とのコミュニケーションがほとんどとれていなかった事もあり、無理にでも参加しなければと思ったのです。しかし遠野にたどりつけたのは19:30頃、いつもより会議が早く終了した後でした。事務局の斉藤氏(展示会場捜しの窓口役の方)を尋ねると、「千枚以上の絵を展示できる会場が見つかったので貴方から連絡を入れるように」と連絡先を記したメモを渡される。期待に胸がふくらむと同時に空腹なことに気付き、コンビニのサンドイッチを頬張りながら、先程来た道を川井キャンプに向け走り出しました。途中山道にさしかかると霧が出はじめ、立丸峠の手前あたりからは視界が3m程になり、引き返そうにも狭い山道でUターンもできず、ガードレールに沿ってノロノロ走る?しかありませんでした。川井キャンプへは21:45にたどり着き、どうにか門限に間に合いました。翌24日は宮古の千徳保育所にて前日と同じメンバーにてお絵描き会を実施、この度の日程を終える。
 8月29日、レンタカーに3名のボランティアを乗せ(高橋君は札幌から来た大学生グループの子供施設への案内に追われ多忙だった)陸前高田の下矢作保育園でのお絵描き会に向かう。午後はがらくた座の8月公演に合流、大船渡の立根小学校の学童クラブで公演後、ボランティアの3人をMNに送り届け、翌日の都合上再度大船渡に引き返し、再開したばかりのホテル福富に投宿する。このホテル周辺は瓦礫だらけ、津波が達しなかった3階のみでの営業再開でした。
 翌30日、午前中の盛保育園でのがらくた座の公演には立ち会わず、花巻空港へ妻を迎えに車を駆る。お昼には再び木島さん達と合流、気仙沼市の唐桑半島にある高松園(障害者施設)の公演をサポート、利用者の人形劇への反応が7月のひかみの園と同様に大受けだった事に安堵する。その夜は矢作の鈴木旅館に投宿する。

 翌31日、大船渡のリアスホール(アイーナだけでは絵を全て展示出来ない)に赴き、佐々木規子さん(同ホールの運営委員)に立ち会ってもらい下見させて頂く。本来リアスホールは10月から復興オープンの予定だがギャラリー部分は9月中でも利用可能であり、秋分の日を含む22日~24日が確保出来そうでしたが仮予約は適わず、申し込み手続きは月初めに直接来館の上でと言われ再訪する事にする。今日は午前中にMN事務局に立ち寄り、展示会用ポスター制作についてスタッフと打ち合わせた後すぐに盛岡の環境学習交流センターへ向かい、佐々木明宏氏に面談する予定でした。リアスホールを出ようとした時、一昨日、MNで出会い「展示プランを任せて欲しい」と迫ったM女史が遅れて駆けつけて来られ、気持ちは急ぎつつも取り合わない訳にもゆかず一通り説明したのがタイムロス、遠野には立ち寄らずに盛岡へ直行しなければならなくなりました。午後2時過ぎ盛岡着き佐々木明宏氏に初めて対面、早速ギャラリー•アイーナの利用日程(空き)を調べて頂いた結果、9月中に3日以上連続して使用可能な日は17日~20日の4日間だけが空いていました。使用料等については復興支援事業の減免措置を申請してその結果が出てから計算して頂けるとの事、即時に仮予約をお願いしてMNの斉藤氏にその旨を報告する。さらに佐々木氏からギャラリー•アイーナを利用した際に使用できる付帯設備の説明等を受けた後、英美とふたり明日から三日間お絵描き会ツアーの足場となる川井キャンプに向かう。
 9月1日~3日、この間に宮古、山田、岩泉で予定された幼稚園1、保育所3、学童育成センター1の5ヶ所でのお絵描き会を、川井キャンプ滞在のボランティアさん、地元参加の古舘和子さん、金澤勝子さん、鎌田澄江さん達の協力によって実施する。受け入れ先の山田幼稚園ではお絵描き会の終了後、園児達が運動会に備えて練習を重ねてきたという”よさこいソーラン”を元気いっぱいに演舞して見せ、私達を感激させてくれました。残る一ヶ所、県内最北の洋野町にある育成センター『種市放課後児童クラブどりーむ•キャンパス』は川井キャンプから150km以上3時間の道のり、私達が訪ねるにはあまりにも遠く、紹介して下さった鎌田澄江さんにお絵描き会の実行を委ね、描かれた絵が16日迄に間に合えばアイーナで展示する事にしました。9月3日の午後、遠野に戻り英美と一緒に、MN事務局内で展示会用ポスターの原稿作りに取り掛かる。夕方には、宮古、山田、岩泉での活動と展示会場が確保できた事を会議で報告する。ポスターの原稿を21:30頃に仕上げ、企画担当の及川氏に校正をお願いし、またも消灯限々寝床につく。
 9月4日、朝一番に大船渡のリアスホールを目指して出発、9時に到着すると早速ギャラリーの申し込み手続き及び、規約にのっとり精算を済ませる。口利きをして下さった佐々木規子さんも駆けつけ、展示会場の決定を喜ばれる。その場から電話でMN理事の多田氏に結果を報告すると僕が組織の決定を待たずに独断で決めた事を諌められる。多田氏の諌言は組織の運営上当然に思えましたが、僕は展示会の9月開催の為には即断即決、他に選択肢はありませんでした。リアスホールを出た後、陸前高田市米崎にある菊池家に立ち寄り位牌に合掌後、花巻まで走り空路帰宅する。
 9月5日、ポスターの原稿が大幅に変更されて差し戻されてくる。見ると主催者名と写真の一部が変更され、開催趣旨の文章にも弄られた部分がある。印刷に要する日にちを考慮すると開催までに時間が迫る中、急いで及川氏に再訂正してもらう。主催者がけっぱれ岩手っ子とMNの共催からMN(正式なロゴにて)の単独主催に変わった点は展示会場の確保に尽力頂いた事を思えば致し方ないとして、写真は写り込んだ絵や子供の保護者に了解を得たものであり他に変える事は許されず、元に戻してもらう。ポスターの製作については8月31日、MNへ打ち合わせに立ち寄れなかった事件以降、最近迄てこずることになる。

 9月8日、佐々木明宏氏からギャラリー•アイーナの利用について復興支援事業への認定と、利用料減免措置後の見積り明細が届き、この結果をMN代表理事の佐藤氏に報告すると大船渡のリアスホール決定時と同様、今回も費用が発生する事案については事前の承認が必要と答えられる。既にポスターも発注されており取りやめる訳にも行かず、元々展示会は自主開催のつもりだったので費用は全部被る覚悟で進める他ありませんでした。
 ポスターとチラシの印刷ができ次第、広報活動に取り掛かる必要があり、勤務先に月末まで休職させてほしいと伝えましたが、そうした制度は無く「まとめて休むのであれば離職する以外なし」と二者択一を告げられる。致し方なく、広報活動は高橋君にできる限り動いてもらい、展示会の設営日まで岩手入りを控える事にしました。関西に住まいと仕事を抱えたままで、けっぱれ岩手っ子の活動を続ける事の限界を思い知る出来事でした。9月10日、不手際が重なり、開催の一週間までにずれ込んだポスターがようやく出来上がり、チラシと共に配布先ごとへの発送を大急ぎで済ませる。

 9月15日、東梅田付近から出る仙台行きの夜行バスに乗る。16日早朝、仙台発の東北新幹線に乗り換え、10時頃に盛岡へ着くと駅前にSAVE IWATEメンバーの金野まりさんが車で迎えに来られ、盛岡に滞在中の宿舎、旧金野医院に案内される。今は使われていない病室のベッド脇に荷物を降ろし、簡単な利用説明のあと車に戻りギャラリー•アイーナまで送って頂く。少し後に到着した髙橋君と二人で地元メディアの取材を受けた後、設営に取りかかる。そこへ偶然にも金沢の二人(ミツル•カメリアーノ、後藤宇企子)が盛岡での別の用事を終えて応援に駆けつけてくれる。展示パネルや照明等、付帯設備の用意が整い始めた段階で、このビルに入居する幾つかの団体、法人のスタッフと思われる人達が三々五々集まり始め、自己紹介も無く「どこから始めようか」と言いながら作業に加わってくれるのである。この人達に佐々木明宏氏はどのような呼び掛けをしたのだろうか?言いようのない不思議な温かさに包まれた中での作業でした。
 ギャラリー•アイーナでの展示期間は17日~20日の4日間、次の大船渡展(リアスホール)が23日~25日の3日間、ほぼ連続した日程でしたが、僕は19日の午後に一旦西宮へ帰還、20日21日と二日間出勤、21日の勤務後、翌日の10時から行う予定の設営作業に向かうべく新大阪駅まで出て来る。しかし新幹線は台風の接近で大幅に遅れが出ており、ほどなく全便の運休が告示される。東名高速道路も通行止めとのニュースがあり途方に暮れる。家人に電話してネットで検索してもらうと、東名高速を通らない新宿行きの夜行バスだけは運行されていると判り、乗り場のある東梅田に向かい、発車を待つことにする。結局、一関で借りたレンタカーで大船渡のリアスホールに着いたのは翌日の午後2時過ぎ、この日の設営に必要な道具(ステープルガン)は僕が調達しており、到着するまで設営の為に参加したボランティア全員を待たせてしまった訳です。原因が台風なので止むを得ないとは云え、岩手に滞在し続けていればこんな事にはならなかった筈と、無性に悔しさを覚える。
 展示会までどうにか間に合った洋野町の種市放課後児童クラブ•どりーむキャンパスを含め53ヶ所、1800名余りの子供達の絵は多くの人の力で盛岡、大船渡の二会場に分け、総て展示する事ができました。後日、陸前高田の園児父兄から、盛岡の会場へは遠くて行けなかったので地元での再展示を希望する声が寄せられる。多分そうした要望は他にも在ると思われ、特に遠方での展示となった陸前高田市と住田町の子供が描いた絵340点は、地元で会場を捜して再度展示を行う事にする。但し、僕の活動には限界があり、準備全般を亡き娘の夫である武文さんと、義母の文子さんに依頼したのです。菊池親子は会場の確保のみならず、教育委員会との展示用パネル(学校保管)の借り受けの交渉、それを運ぶトラックの手配に至るまで奔走して下さいました。多分、菊池親子のこうした協力が無ければ10月15日16日の2日間、竹駒コミニティーセンターで開催した陸前高田での展示会は実現できずに終わっていたのでしょう。僕は唯の連絡役であり、お膳立てが整った後、14日の設営作業に出向き、展示終了後は撤去作業のお手伝いをしただけでした。

 展示会が終われば絵を子供達に返して活動を終結させるだけでしたが、時期を前後してこれらの絵を借り受けたいと複数の申し入れがありました。僕はこのプロジェクトを立ち上げた時に、集まった絵の貸し出しの要望がある事を想定、その場合の対応を事前に決めていました。かつての阪神淡路大震災での事例を鑑みてだした結論は『目的の異なる展示に使うべきではない』でした。それゆえ『絵を県外で展示しない』『展示を第三者に委ねない』の方針を貫く事にしたのです。絵の貸し出し依頼が直接僕にあった場合は何の問題も無くお断りしてきましたが、MNに依頼があった場合を考えれば、絵を貸し出さない方針は、8月21日に展示会場の確保をMNの佐藤氏にお願いした時点で伝えておくべきでした。すべてはコミュニケーションの不足に起因していました。
 9月下旬、東京のT氏からの貸し出しの依頼に、髙橋君が対応するも断り切れず、対応は僕に振られました。日を置く間もなく掛かったT氏からの電話での依頼に僕は貸し出しをはっきりお断りしました。しかしその後もT氏からは髙橋君とMN事務局に執拗な働き掛けが続いたようです。髙橋君から電話でMN事務局が貸し出しに応じたい意向であると聞かされても当初の方針を変えないと返しました。髙橋君は僕とMNの板ばさみに苦しんだ様で10月に入った頃、「藤田さんにはMNへの感謝の気持ちは無いんですか?ただ利用しただけなんですか?」と、暗にT氏からの貸し出し依頼に応えるべきと迫りました。僕はあくまでも絵を貸すつもりは無い事を伝えて電話を切りましたが、思いもしなかった彼の言葉に抑えきれない寂しさを感じました。絵を貸す貸さないと、MNへの感謝の有無は全く別の問題であり、個人であれ団体であれ被災者の支援が最終目的である限り、利用したかされたかでなく、どれだけ相互に利用し合えたかが大切な筈です。

 関西弁だと「利用してもろて何ぼのもん」かな、只、髙橋君には今更ボランティアや支援について御託を並べる愚に依らず、自ら気付いて欲しかったのです。T氏からの貸し出し依頼は止みそうに無く、僕が直接お会いして断る以外に方法はありませんでした。10月半ば、陸前高田展会場から程近い喫茶店で、T氏は僕と髙橋君を前に、芸術の重要性と子供の絵の活用方法を滔々と弁じられましたが、僕は子供達に絵を描いてもらった動機も展示会の目的も異にする方に絵は貸さないし、返還後、父兄に再度借用を頼むお手伝いなど毛頭する気はありませんと告げ、この件で僕以外に交渉相手はいない事も申し伝えました。T氏に会って解ったのは、けっぱれ岩手っ子の活動理念でもある被災者への寄り添いが、残念ながら彼の言動からは全く感じとれ無かった事でした。貸さずに済んだ事にほっとする。
 絵を描く行為が自己表現の一つであり、子供の生への貪欲さ(=元気)を引き出すのに有効である事は承知済でした。しかし展示された絵から放たれる元気が見る者に伝わり、大人をも元気にさせる事は、阪神淡路大震災後、展示会をした事によって初めて気付く事ができたのです。只、先にも触れましたが子供達の描いた絵を見る為に会場まで足を運ぶ人は、家族身内以外はほとんど皆無に近く、地元での展示となった大船渡と陸前高田の会場はともかく、内陸部に位置する盛岡会場(アイーナ)では家族の入場者も疎らで、閑散とした光景でした。しかし、この展示会を描かれた絵の晴れの場所に捉えるのであれば、この会場ほど立派な所は県下にも、そうそうありません。千枚に余る絵は、静かな会場に可視されない清らかな雰囲気を漂わせています。大きく開かれたガラス越しに覗く青空と、壁いっぱいの絵が醸し出すオーラは、此の度の震災で還らぬ人となられた、この子たちの親族を含む多くの御霊へ捧げるに相応しい展示会に思えたのです。一枚一枚の絵から「僕たち、私たち元気だよ」の声が聞こえてくるようです。
 展示会の終了後、絵は髙橋明史くん、鎌田澄江さん、菊池武文さんの三人で分担、各施設へ手渡しでお返ししました。髙橋明史君は経験を買われたのか11月からは、チーム3ミニッツというNGOの岩手駐在員として、期間契約での報酬も多少得ながら翌年の3月末までMNに滞在、4月に横浜へ帰った後、今では保育園の職員として元気に働いています。
 準びに取り掛かった2011年の4月以来、絵を総て返却し終えるまでの7ヶ月に及んだ、けっぱれ岩手っ子の活動を最後まで完遂させるまでには、数多くの方々の支援と協力が欠かせませんでした。同年3月末、炊き出しがご縁で村井雅清氏から紹介された豊田純一郎氏、この二方と遠野まごころネットの存在が無ければ多分、けっぱれ岩手っ子のプロジェクトは立ち上げていなかったと思います。そして髙橋明史君、彼が遠野まごころネットに滞在していなければ、その後の活動継続はできなかったのです。旗振り役の僕が被災地岩手に常駐できず、到底不可能に思える状態の中で此の活動を支え、物心を問わず援助の手を差しのべて下さった総ての人達に感謝して止みません。ありがとうございました。

2012.12

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