紀伊半島にはなぜ原発がないのか?

公庄れい
3•11の後どなたも原発の所在地と自らの住まいとの距離を考えられたのではないだろうか。紀伊半島の北部に住むわたしは、全国にはりめぐらされた原発網の中で、唯一ぽっかりとした空隙に自分が住んでいることの幸運に感謝したのである。そして国策という強力な武器を持った電力会社の毒牙から、紀伊半島はどのように逃れられたのか知りたいと思っていた。
豊中市から有田川町へ来て百姓をしている友人をこの5月に訪ねた時に、この表題を帯に付けた本を紹介された。『原発を拒み続けた和歌山の記録』という本である。裏表紙がわの帯には鈴木静枝さんの言葉が文中より引かれている。
”小浦なんかでも昔の事として原発に触れないように生きています•••••原発と言うのは禁句でして、うっかり言っては平和をかき乱すような言葉になってしまうので、もうその話題は皆避ける事にしています。やっぱり私らの喧嘩した年代が死んでしまわない限り、その傷痕というのはとれないだろうと思いますね。これは原発に声をかけられて、ひと騒ぎしている町村はどこもかも皆こんな傷を受けているんだと思います。”
以下にこの本によって、原発がどのようにして一つの地域に持ち込まれるかを検証してみたい。そして現在被曝地で苦しんでいる人達の過去にもこんな痛みが存在したであろう事を、わたしも痛みを持って考えざるを得ない。
原発を作るためには用地以外に地元の同意が必要となる。そのために関電は「立地部」を現地に設置し、その機能を拡大強化して、地域住民に向けた広報や子供を対象にした教育活動に力を入れている。その際の目玉「原発見学ツアー」の代金は相場の1割ほどで「原発は安全、原発はこわくない、地域振興になる」と原発の危険性には目をつむらせるツアーに住民を巧みに誘い込んでいく。関電の職員はそれが仕事であり、そのために給料をもらっているのだから、住民の心を原発賛成へといざなっていくプロである。豊富な資金力で粘り強く住民の心に食い込んで原発賛成派を増やして地域共同体を真っ二つに裂いてしまう。原発立地点として狙われた小浦や阿尾地区では、村祭りもできず法事もできないような状態に追い込まれたという。
紀伊半島では日高町小浦、阿尾、日置町、古座町、那智勝浦町の五ヶ所に原発建設の話が出たが、古座町と那智勝浦町は町会議で、誘致決議されたが、隣接するくじらで有名な太地町の住民の迅速かつ強力な反対運動に押されてまず太地町議会は昭和44年1月、「両原発の設置に反対の決議」を行い、3月、「太地町原子力発電所設置反対連絡協議会」はバス3台で県庁に向かい、知事と県議会議長に陳情を行った。5月には原発設置反対町民大会を開催、六月には女たちが反対デモ、県への陳情を行う。この動きは周辺の漁協もまきこみ那智勝浦町議会は46年、原発反対を決議する。が、国も関電もあきらめず知事や町長は推進派なので住民は油断できない状態が続いたが昭和56年8月、反対派からの公開質問状に対して町長は「設置反対」と回答し、町議会の誘致決議から12年、ようやく那智勝浦町は原発から逃れることができたのである。
古座町が原発誘致を決議したのは昭和43年、地元の田原漁協は47年絶対反対を決議し、6月「紀南漁民反対連合会」とともに漁船170隻乗員500名を動員して海上デモを行う。陸上では玉之浦海岸に約1,000人が集まって反対集会を開いていた。9月の町議会では誘致反対を決議したが、誘致勢力はそんなことぐらいでは諦めない。
関電の小林庄一郎会長は、日置川原発に関して「狙いをつけたら必ず立地するのが関電の伝統」と言い放っている。古座でも誘致派のあの手この手の攻撃に揺らぎ続けた町議会が最終的な反対決議をしたのは平成2年、22年におよぶ反対住民たちの苦しい戦いが紀州の海を守っている。
日置川町の場合、原発以前に関電にはひどい目にあっている。昭和33年の台風で、関電の殿山ダム放流で大きな被害を受けた際の関電と御用学者、行政対応に煮え湯を飲まされている。
昭和51年2月の臨時議会で町長は突然原発誘致を前提とした町所有地の売却を提案してきたのである。昭和31年日置川町が町になって以来20年近くその座にある森田町長は大物町長として県下に知られていた。その彼が作った「日置町開発公社」は地権者に国定公園にして乱開発から守ると説き伏せて土地を買い集めた。この臨時議会で、その土地を原発利用地として売却することへの疑義が呈され新聞記者も傍聴に入ると議長は”秘密会”を宣言、傍聴者を締め出し数時間で関電への売却を決めてしまった。
住民は京大、東大、阪大などから研究者をまねいて勉強会を開くなどエネルギッシュな活動をくり広げて原発反対の町長を誕生させるが、その町長が二期目には変節するなど国家権力と関電のふりまくアメの力に反対住民は悩まされ続ける。昭和63年原発反対協議会は、元農協組合長で保守系無所属の三倉氏を擁立した。
三倉氏は自民党日置川支部の成立にもかかわり、支部幹事長として活動してきた人である。「今回の一票は、全国はおろか、世界に貢献できる選挙だ。しかしこのような選挙は、二度とあってはいけない」と格調高い、それでいて二派に別れて争わざるを得ない、自らをも含めた地域への哀しみに満ちた言葉を残している。
三倉氏二期目の平成7年、3月議会で原発計画を削除した「長期基本構想」が全会一致で可決、自らに課した役目を果たした三倉氏は8年、町長選挙前に引退した。27年間にもわたる反原発闘争を終えることのできた地区は、関電が土地をもっている限り核廃棄物処分場への転用を警戒せざるを得ない状態にある。
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日高町阿尾の場合、昭和42年日高町議会が原発誘致決議をしたが、その5年前大阪の製材会社によって土地は買い占められ、社長は製材工場を建てるための土地で絶対売却はしないと約束していた。阿尾地区では37年1月製材工場の誘致を可決していた。が製材会社は土地のすべてを関電所有の他所の土地と交換していたのである。元の地権者140人が製材会社を相手どり土地の返還を求める訴訟を起こしたが敗訴、製材会社は元地権者を相手どり2億2387万円の損害賠償訴訟を起こした。阿尾地区は訴訟の取り下げ交渉を町長に一任、製材会社は将来原発建設のための事前調査の申し入れがあった場合は区民一体となって真剣に取り組むことを条件に訴訟を取り下げた。こうして阿尾の人達は手足を縛られてしまったのである。関電はここまで住民を追い込みながら阿尾はひとまず小休止して同じ日高町の小浦に矛先をむけていく。
小浦は阿尾から2キロほどの距離にある。昭和50年原発建設計画が小浦に持ち込まれたが、ここも用地はすでに45年ころから当時の町長名義で確保されていた。原発建設計画を打診された小浦地区では、区長らが福井の美浜原発と大飯原発の視察に出掛けた。帰った区長らは地元住民に「安全度は高く原発誘致は地元の発展に繋がっている」と報告、町議員も視察に出掛け、賛成住民は「郷土をよくする会」を結成した。そして町議会へ原発調査の請願を出し、議会はその翌々日「原発調査研究特別委員会」を発足させるという手際のよさである。
関電と日高町が進める原発立地に必要不可欠の海上事前調査の決定権を握るのは地元の漁師を束ねる比井崎漁協である。51年2月の臨時総大会では激しい議論の末、”現段階において誘致につながる調査研究は絶対反対”ときまったが、この後漁協幹部の不正融資による経済的な危機、それにつけこむ関電の漁協への3億円の預金、後の裁判で明らかになる不正融資事件の陰にちらつく町長と関電の影。一人二人と切り崩されていく仲間。県•町•経済界の圧力など読み進むのが辛いと思わせられる程の妨害の中で比井崎漁協は昭和63年3月30日に総会を迎えた。
3月下旬には日高地方の医療関係者30名が医師の立場から原発に反対するチラシを新聞折り込みで配布、地元反対派の危機を聞き付けて全国から支援者が集まって来た。漁協の組合事務所の前では28日から「つれもてすわろう女たち」と女性たちが座り込みを始めた。子連れで座る人もおり夜は寝袋にくるまった。女たちは決めていた。”抗議をするのではなく漁師さんたちにお願いするのだ”と。
組合長が議案の「事前調査に関する件」について関電との交渉経過をのべ提案理由を説明した。反対派組合員から「事前調査と建設が別問題というのは詭弁。建設を前提にしないでどうして関電が6億7000万円もの調査協力金をだすのか」「切り放しの根拠を示せ」と追求、午後1時55分議長が突然”質疑打ち切り”を宣言し採決に入ろうとした。これで会場は混乱に陥り、別室で待機していた機動隊約30人が会場に入り2時10分に休憩に入った。その後再開、混乱、再開、混乱と荒れに荒れた。午後4時すぎついに組合長が宣言した。「議案は廃案。役員は総辞職します」
21年間に及ぶ苦しい闘いだった。漁師と女たちが紀州を守ってくれたのである。現地では多数の原発に反対する会が生まれ、”生命をまもれ”とそれこそ命をかけた闘いが続いた。大阪大学の久米三四郎氏や、京都大学原子炉実験所の先生方を始めとする大勢の研究者の無私の協力、和歌山市で公害のない暮らしを理論で支えるための研究をコツコツと積み上げてきた市井の学者宇治田一也さん、命を守る医師としての立場から公害問題に目をむけ、1972年から毎月「公害教室」という勉強会を開き続けてきた汐見文隆•恵夫妻の息の長い活動の中で育まれてきた市民の力、京阪神の女たちの経験に裏打ちされたしつこい程の応援、そしてスリーマイル•チェルノブイリが神風となった。
今、生粋の推進者から、反対派に「おまはんらの方へ足向けて寝れやんな」という人が出て来たという。
大勢の人達の多年に亘る闘いを要約することは無謀である。是非みなさんこの本をお読みください。
『原発を拒み続けた和歌山の記録』監修者: 汐見文隆 出版社: 寿郎社 TEL.011-708-8565 FAX 8566
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この本には2人の鈴木さんという女性が登場する。2人に共通するのは青春期に敗戦に直面したという事である。物事の善悪が一夜にしてひっくりかえるのを見た人達である。2人はそれぞれ女たちの反原発活動を引っぱって行っているが、鈴木静枝(日高町「原発に反対する女の会」)の文の一部を紹介したい。
••─前略─それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなもんです。で、戦争すんでから、原発にめぐりあったんですけどねえ。その時の話では、原発というものはクリーンなエネルギーで、火力、水力なんかよりも値段が安いし、それを持ってきたら、地域に何億というお金が降ってきて、個人もたくさんの補償金がもらえて、道は広くなるし、立派な公共の建物は建つし、何年にもわたって豊になれるということで、タナからボタモチ降ってくるような話でした。
あんまりありがたい話なので、これまた例の戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけやなあかんな─とその時思いました。─中略─
あんな反対するやつらは、過激派みたいにおかみにて向かうやから、あの人ら赤や、言うてね。もう、その古めかしい赤というレッテルを、私らペタンと貼られてしまいまして、赤でも黒でもないけど、ただ原発というものがこわいということだけで反対してるんや、と言うても、通じません。だから原発に賛成するか、反対するかということで、おかみに忠実であるか、手向かいする気かという、そういう踏み絵がわりに使われている傾向がありました。
だから小浦で92人も初め署名してくれたけど、10年程の間に1人2人減っていってしまってね、足元をちょっとずつ波が崩していくように。
就職する時におかみににらまれたら、ちょっと悪いさいよう、ちょっとの間、署名はするけどよ、黙っててよ、というような形で、だんだんと減っていくわけです。なんかおかみが光り出したら、後へ後へと下がるんやね。なんで、こんなにおかみに憚らんといかんのか、と思って、悔しかったです。•••─後略─
大阪市では、国家を唄っているかどうか教員の口元を見ているのだという。タトゥーをしているのか調べるのだという。学校でどういう人間を育てようというのだろう。
原発を拒み続けた和歌山の記録 (HOPPAライブラリー)
汐見文隆(著), 「脱原発わかやま」編集委員会(著) / 寿郎社 / 2015年4月16日
<内容>
紀伊半島にはなぜ原発がないのか?第26回地方出版文化功労賞奨励賞受賞!「いのち」の源─海•山•川を守り未来へつなげた住民たちと関西電力との闘いの軌跡。
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