オーストラリアから⑦ 『総括』 「宮仕え」教育から個人の自覚へ

堀蓮慈
日本ではひさしぶりの政権交代があったが、オーストラリアではようあることで、ぼくの滞豪中の07年にも起こった。保守連合は自由競争、労働党は社会民主主義、と基本姿勢がはっきりしてるから、選択もしやすい。ぼくが民主党に期待するんは、官僚支配の打破と、対米従属の緩和(解消まではとうてい無理やろ)やが、官僚が国の隅々まで牛耳ってる仕組みを変えるんはほとんど革命で、あの戦争に負けてもビクともせんかったもんを変えるんは不可能やないか、いう気もせんではない。近代の官僚制ができたんは明治やが、武士という名の実質的な官僚の支配から数えたら、江戸幕府以来まる400年やからな。
国の姿を作るんは教育や。日本では、民主主義を支える「市民」が育ってない。というのは、日本の教育は基本的に「科挙」、つまり固定的な知識を詰め込んで試験に通ることで、官庁なり大企業に入って、物質的に豊かな生活ができるようになる、いうんを目標にしてきたから。いわば「宮仕え教育」で、個人の自主性なんか育てたらむしろ邪魔になる。一方、オーストラリアに限らず欧米諸国では、教育は自己実現を目指すもんであって、本人が何をしたいかが出発点になる、いうんが常識や。日本みたいに、安定した収入を得ることを至上命題にするんは、貧しい国の発想やわな。
明治の初めとか、戦後の復興期とか、官僚制が有効に働いた時期もあったが、日露戦争後、軍人という名の官僚が国の方針を誤ったように、今や明らかに癌になってる。考えてみたら、自分の利益を一番に考えて役人になろうとした人間に権限を与えたら、利権を貪るんは当たり前の話で、それは科挙の結果が歴史的に証明してる。それが今まで存続してきたんは、実はみんな本音では「おいしい思いをしたい」て思てきたからに違いない。そやなかったら、受験競争がほとんど全国民を巻き込むことはなかったし、親が子供に望む一番の職業が「公務員」ちゅうようなことにもならんかったやろ。
さて、今、試験に通ったからいうて安定した生活が保障されるとは限らん、いう状況になった。これはええことやと思う。子供らは功利的な学習の動機を失い、学ぶことの意味を、ひいては自分の生きる意義を考えざるを得んやろ。漱石の描く「高等遊民」が出現した背景に近いもんがあるように思う。で、組織に入らずに自分で仕事を作っていく、いう人間も増え、「宮仕え」するにしてもあくまで自分の人生を優先するから、滅私奉公どころかサーヴィス残業はせんし、いつでもやめる準備ができてる、いうことになれば、日本の企業風土も変わるはずやがな。「オーストラリアはセーフティ•ネットがしっかりしてるからええけども、日本では無理」てか?日本の経済力を生かせば、同じぐらいの社会保障は可能やと思うで。新政権の努力次第で、今ならまだ。
ともあれ、父親が認知症を発症してホームに入所し、母親が1人になった、いう個人的な事情により、さんざんくさしてきた日本に帰って来ざるを得んようになった。両親を見送ったら何の障害もなくなるが、それ以前にもチャンスがあったら向こうに行きたい、いう気持ちは変わらん。最大の理由は、個人主義の中で育った人間の方が、ぼくにはつき合いやすい、いうこと。日本の学校が気に入らん人間は、日本社会にも会わんのやな、結局。
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