牛久市立牛久第一中学生暴行殺人事件

ADDRESS & CONTACT


GPS

35.976778, 140.154639


OPENING HOURS

CLAIM LISTING


Is info on this listing outdated? Are you owner of this business? Register and claim it now.

1998年(平成10年)10月8日、茨城県の牛久市立牛久第一中学校の男子生徒Aさん(中学3年生•14歳)は、学校近くの林道で同級生の少年B(中学3年生•15歳)に殴打されて死亡した。

事件当日の放課後、Bは1人だけ動きやすいようにジャージに着替え、周囲の生徒に、これから喧嘩をするとわざわざ吹聴し、Bの仲間の計5,6人で事件現場に行った。Bは、Aさんに殴られたのでカッとして殴り返した結果、Aさんは地面に倒れて動かなくなったと証言したが、鑑定ではAさんの手足には相手を殴った痕跡すらなかった。(Bは当初はAさんを蹴ったことも認めていたが、後に殴っただけだと供述を変えた。)

検察側は、当初は警察の「一対一の素手によるケンカ」という発表を引き継いでいたが、後に石山昱夫帝京大学教授による「暴行を受けて死んだのではなく、もともと重い心臓病をもっており、喧嘩時に興奮したために『ストレス心筋症』で死亡した」という鑑定結果を採用した。(現代医学では、ストレス心筋症を人間の症例として認めていない。)

裁判の傍聴を続けた教育評論家の武田さち子氏は、東京高裁へ提出した上申書の中で、B少年の精神状態について検証を行い、「メリケンサックのような自らが積極的に攻撃行動に出なければ使えない武器を使用」した集団リンチである可能性が十分に考えられる事件であると述べている。

Bは傷害致死の容疑で逮捕されたが、少年審判が開始される1週間以上前に少年鑑別所を出所し、事件から約2か月後の冬休み前から登校した。家裁はAさんの死因を、現代医学では人間の症例として認めていない鑑定結果と認定し、Bを保護観察処分とした。(Aさんの遺族は、加害者の親と兄弟が警察関係者ということで不当な捜査が行われたと訴えている。)

2003年11月10日 加害者とその両親に対する裁判で、東京高裁はBの原告各人(父母)に2024万円の支払いを命じた。過失相殺は4割5分(B5.5、Aさん4.5) (確定)

Aさんの遺族が国と県を相手取った裁判と、牛久市を相手取った裁判は、何も棄却された。

事件の経緯

被害者側の調査•証言 加害者•教師ら被告側の証言
小学校時代、地元で同じサッカークラブに入っており(後に加害者Bはサッカーをやめて野球へ)、仲は良かった。2年生の時にAさんとBは同じクラスだったが、Bの方から、自分が辛いからAさんとは違うクラスにして欲しいと担任に要望し、3年時は別々のクラスになった。 2人が仲が悪かったという話は聞いたことがない。(事件後、AさんがBをいじめてサッカーチームから追い出したと噂を流した。)
3年の学年主任が、3年3組に問題のある生徒を集め、海外赴任から帰ってきたばかりで事情の知らない教諭に担任をやらせたと、Aさんの両親と弁護士に話した。 裁判の証言で、学年主任は左内容を否定し、3年3組に問題のある生徒を集めた事実はないと証言した。
Aさんの同級生Cさん(男子生徒)が、同クラスの女子生徒のことを「ムカつく」と言ったことから、AさんのクラスメイトとBが仲違いした。(喧嘩をするなら、BとCさんだと周囲は思っていた。)教師や友人らは、「二人は対立していたという関係にはなかった」と証言している。
10月8日 事件当日の昼頃、Bは女子生徒Dさんに、「今日、喧嘩をする」と言っているのを他の女子生徒が聞いていた。 (竜ヶ崎署の発表を元に、一部の新聞で「◯◯(Aさんの苗字)は以前から少年に喧嘩をしないかと持ちかけていたが、少年は相手にしなかった。8日も学校内で◯◯(Aさんの苗字)君が少年に『喧嘩ができないんだろう』と挑発」と報じられる。)
帰りの会の前にトイレの所で、AさんとBは口論していた。AさんはBに足蹴にされるが、やり返さなかった。居合わせた教師はAさんのみを咎めた。(生徒の証言) 教師はAさんの姿は目撃したが、Bのことは見なかったと証言した。
放課後、Bは1人だけジャージに着替えていた。
放課後、AさんはBとその仲間の計5,6人に連れられて学校近くの林道に行った。Aさんは、いつも一緒に帰る仲間と「一緒に帰ろう」という合図として昇降口に鞄を置いたまま着いて行った。何人かは自転車に乗っていた。 仲の良いBと一緒に帰ろうと思って徒歩で着いて行った。
近所の住民が「4,5人の制服を着た生徒が現場の林奥に自転車で入っていった後、数人の中学生が『そっちへ行ったぞ』などと声を上げながら林の中で誰かを追っていた」と証言した。(警察はこの証言を不採用) Bの仲間の少年たち4人は、AさんとBとが話している間、現場まで行かず、林道に入る手前(約150m)の離れた所で待っていた
(後に司法解剖した筑波大の鑑定で、「死因は右下腹部や肝臓の下などに強い外力が加わったことによる『神経性ショック死』で、「顔の傷の一部は『表面の粗い鈍体』で生じた」と判定した。)
Aさんの手足には殴ったり防御した跡も無かった。
Aさんが殴ったのでカッとして殴り返した。(最初は蹴ったりしたことも認めていたが、後に殴っただけと供述を変えた。)結果、Aさんは地面に倒れて(顔の傷はその時にできた)動かなくなった。(後に検察側の再鑑定で、「暴行を受けて死んだのではなく、もともと重い心臓病をもっており、喧嘩時に興奮したために『ストレス心筋症』で死亡した」と判断した。)
同行していた少年たちは、Bに呼ばれて行ってみるとAさんが倒れていた。近所の人に電話を借りて学校に連絡し、救急車を呼んだ。
救急車のサイレン音を聞いて、Dさんは「私のせいだ」と泣き喚いていた。(証言では「忘れた」「覚えていない」と話した。)
CさんとDさんが「事件は自分たちが原因かもしれない」と教師に話したが、口止めされた。
Bは大変な興奮状態だった。現場に着いた教師は、生徒たちに「自宅に帰って待機しているよう」指示し、詳しい事情などは何も聞かなかった。

警察の対応

死因その他について警察•病院から何も説明はなく、警察からは「棺はどうするか?自分たちで用意するのか?」と聞かれたのみ。加害少年との関係など、事件の背景となるようなことは一切聞かれなかった。

竜ヶ崎署がBとその仲間の生徒から事情聴取した結果、「この日ささいな(女子生徒に告げ口をしたとBはAさんから非難された)ことで揉め、Aさんから「今日、放課後やるからな」と言われたことから,放課後に校舎の玄関で会い、現場に向かった。Aさんは『ここでいいだろう』と体育館わきで言ったが、Bに誘導されて現場まで行った。その2人の後をBの仲間がついていった」と話した。

このことから警察は「一対一の素手によるケンカ」と発表した。遺族にも「素手で顔を殴られた」とのみ説明した。
「死因だけでも教えてほしい」との遺族の要請を、「専門知識がないと誤解される」として拒否し、鑑定結果が出てからも顔の傷について「倒れて路面で打った」と説明した。

10月14日 竜ヶ崎署は両親を呼んで、「1対1の素手のけんかだ。わかるだろう。どうしてわからないんだ。」と繰り返し、まるで被疑者を取り調べするような扱いをし、調書への署名•押印を求めた。しかし、両親が「事実関係が明らかになっていない。『警察などの対応に不信感をもつ』の一文を入れて欲しいと主張した。担当者が記入しなかったため、署名を拒否した。(この時の両親の態度を「捜査報告書」には「興奮気味であった」「大声を出して署名押印をせず退席したものである」などと書かれていた。)

その後も遺族の問い合わせに対して(死因の鑑定結果が出る前に)「捜査は終わった」と回答していた。

10月10日 竜ヶ崎署が事件2日後に水戸地検土浦支部宛に作成した「少年事件送致書」には、「被疑者は(中略)過去非行歴は無く学校における生活態度も特に目立つところはない。家庭においては両親健在で観護能力がある。本件犯行は被害者から執拗に喧嘩をしようと挑発された結果の事件で、その結果は死亡という余りにも重大であるが、父兄が警察官という環境もあり今後少年の立ち直りが十分に期待できる」という「犯罪の情状等に関する意見」が添付されていた。

1999年2月9日 Aさんの両親が茨城県警に対して、「捜査は極めて不十分で真相を解明していない」と正式に抗議し再調査を要求した。

3月2日 茨城県警は両親に対して、捜査内容の説明が不十分だったことと、両親から調書を取るときの態度が悪かったこと、Aさんの方が挑発したように誤解される発表をしたことを正式に謝罪したが、一方で、「これまでの捜査と矛盾しない」として、死因については、Aさんの体質的因子が影響したとする鑑定結果を支持し、「ストレス心筋症による心臓死」と結論付けた。

中学校で取った「全く異常が認められない心電図」や、血尿と思われる血が付着した下着やズボン存在を無視し、警察は証拠として鑑定医に提出しなかった。茨城県警が、血尿が付着したブリーフを証拠として水戸家裁土浦支部に提出したのは、事件の半年後、再捜査が始まってからだった。

報道

竜ヶ崎署の発表に基づいて、「◯◯(Aさんの苗字)が『けんかをやらないか』と挑発した」「凶器を使わず数分殴り合っただけ」「二人は以前から仲が悪く、絶えず口論するなど対立していた」「ショック死の可能性は否定できないが、死因は不明」と一部の新聞が報道した。
「◯◯(Aさんの苗字)君は以前から少年にけんかをしないかと持ちかけていたが、少年は相手にしなかった。8日も学校内で◯◯(Aさんの苗字)君が少年に『けんかができないんだろう』と挑発」などという続報を出した新聞もあった。

事件の背景

牛久市には多数の警察関係者が住み、地元の人には別名『警察村』と呼ばれている。被害者の自宅の周りだけでも4~5軒の警察関係者が住んでいる。

調査•鑑定

遺体検案書

1998年10月8日 救急搬送された総合病院の救急外来の医師が遺体の「検案書」を作成した。「(死因は)外傷性くも膜下出血(の)疑い」と記載した。救急用のカルテや死体検案書に何故か既に「1対1のけんからしい」と記載があった。

鑑定1

1998年10月9日 同署に司法解剖を委嘱された筑波大学の三澤章吾氏の司法鑑定で、「死因は右下腹部や肝臓の下などに強い外力が加わったことによる『神経性ショック死』で、「顔の傷の一部は『表面の粗い鈍体』で生じた」ことが明らかになる。

(補足説明) 1999年1月25日、筑波大学の解剖医が、①致命傷は右下腹部に受けた相当な外圧によるショック死で、立ったままでの殴る蹴るではできない顔の傷の一部は表面が粗い鈍器のような物で生じた(素手ではできない)③被害者の手•腕•足には相手を殴ったり、蹴ったり、また防御した痕跡すらないと説明した。

鑑定2

1998年12月 両親がカルテや死亡診断書を元に、東京医科歯科大学の支倉逸人(はせくらはやと)教授に鑑定を依頼した。
無抵抗の状態で硬い鈍体で殴られたと推定される。一対一の素手の殴り合いのみでは生じない傷」と断定した。

鑑定3

水戸家裁土浦支部が帝京大学の石山昱夫(いくお)教授に依頼した「再鑑定」(解剖時に残され、ホルマリン液に保存されていた心臓を使用)では、「暴行を受けて死んだのではなく、もともと重い心臓病をもっており、喧嘩時に興奮したために『ストレス心筋症』で死亡した」となっている。(現代医学はストレス心筋症を人間の症例として認めていない。)
「以前に、死に至らぬ程度の軽傷のストレス心筋症が何回も繰り返していた」と鑑定し、この鑑定結果を検察は採用した。

【関連】2002年6月19日 傷害致死事件で執行猶予付きの有罪判決を受けた女性が、「誤った鑑定」による一審で実刑判決を受けたとして、1100万円の損害賠償を求めて、石山昱夫帝京大学名誉教授らを東京地裁に提訴した。
1999年、女性が夫の胸をナイフで刺して死なせた事件で、石山昱夫帝京大学名誉教授は、「体当たりしながら強く刺した」と鑑定し、一審で女性は実刑判決となったが、控訴審の東京高裁は、女性側が依頼した別の鑑定医の、夫が受けた傷は「もつれあった結果、ナイフが突き刺さってできた」ものとの新たな鑑定結果を採用し、女性に執行猶予付きの判決を言い渡した。(2002年6月20日朝日新聞)

目撃証言

近所の住民が、「4,5人の制服を着た生徒が現場の林奥に自転車で入っていった後、数人の中学生が声をあげながら、林の中で誰かを追っていた。その後、5分もしないうちに現場に◯◯(Aさんの苗字)君が倒れていた」と証言した。(竜ヶ崎署は、この人の調書を残していない。)
現場は、鉄パイプや金属片など凶器になるようなものが、あちこちに落ちているような場所だった。

学校•他の対応

事件当日、家族が病院に駆け付けると、学年主任から「◯◯(Aさんの名前)君は、一対一の素手の殴り合いの喧嘩で、相手はB君です」と告げられた。事件について何も調査されていない段階での説明に家族は不信感を抱いた。

教頭をはじめ病院に来ていた約10名の教師に遺体の傷を見せて、「これが素手で殴ってできる傷ですか」と問い糺すが、「一対一の素手による喧嘩です」とのみ回答した。「学校で何があったのか、どうしてこのようなことになったのか」という問いには沈黙を通した。

その夜、遺族は学校に行き、今後の対応について説明を求めるが、いきなり賠償金の話が出たので、遺族が「そんなことを言っているのではない」と言うと、教頭は「私の首でも取りますか」と開き直ったような発言をした。

一部教師を除いて反応は冷たく、何を聞いても「わからない」と回答した。
通夜にはサッカー部の顧問教師1人のみ出席し、告別式には学校からは誰も出席しなかった。担任の女性教師も三七日に一度遺族宅を訪問したのみで、他の教師たちも同じだった。

ある教師から「女子生徒に唆されてB君が◯◯(Aさんの苗字)君をやった」との話を聞いたが、学校側は全て警察に任せてあるとして一切調査を行わなかった。

学校側が現場に設置した線香立ては、現場に捨てられていた錆び付いたペンキの缶だった。

校長は後日、地区懇談会で「散々迷惑を掛けられた」と発言していた。

卒業式について遺族に連絡は無く、「卒業式に出たい」「卒業証書はもらえるのか」の電話に「考えてもいなかった」と回答した。遺族は結局、子どもたちや保護者の動揺を考慮して出席を断念した。
子どもたちの「一緒に卒業したい」「花と写真を飾りたい」との声に、「担任が写真を持って座るから」と遺族にも子どもたちにも約束しながら、式にはAさんの席も写真も花もなく、名前も呼ばれなかった。
(3月31日、教頭•校長が突然、離任の挨拶に遺族宅を来訪したにも関わらず)学校側は卒業アルバムを「ゆうパック」で送った。

PTAからの記念品については何も連絡がなく、1999年7月30日に遺族が取りに行くまで学校に放置されていた。記念品の内、赤飯については「その時のままが良いと思いましたので」というコメントが付けられてカチカチに冷凍されたものが手渡された。

被害者に対する誹謗•中傷

4月に赴任してきたばかりでAさんのことをほとんど知らない教頭は、警察官に対して「事故中心的で気が短い。本当の友達はいなかった」など、根拠もなく被害者を侮辱し、警察官の子どもである加害者を擁護する発言をしていた。

事故報告書

学校が教育委員会に提出する「事故報告書」を見せて欲しいと遺族が再三頼むが、個人情報が入っていることを理由に拒否された。事件発生から2か月以上経ってから県教育委員会より校長宛てに直接電話をしてもらって初めて見せてもらうが、事実と異なる記載がいくつもあった。

加害者

Bは野球部に所属していたが、Aさんの父親にサッカーを習っていたこともあり、Aさんとは元々仲が良かった。市内の中学対抗の運動会では2人は同校代表のリレー選手として出場し、その記念に運動靴を交換したりしていた。

事件当時、Bの父親は警視庁の現役の警察官で、兄は茨城県警の警察官だった。

Bは傷害致死の容疑で逮捕されたが、少年審判が開始(1998年11月19日)される1週間以上前に少年鑑別所を出所し、事件から約2か月後の冬休み前から登校した。(「人を殺してもこんなに早く学校に来れるものなのか」と子どもたちは不安を口にしていたという)

1999年3月 中学を卒業後、都内の高校に進学を決め、家族と共に都内に引っ越した。引っ越しに際して、事件の時に現場にいたBの仲間の少年の自宅で、手伝いに来た警察関係者と共に盛大なパーティーをした。

事件直後に父親から焼香に行きたいという電話が一本あった(当時、事件のショックから母親が入院したりしていたので遺族が断った)だけで、加害少年や家族からの謝罪等は一切無い。(手紙の一つも無い)

2002年3月 写真週刊誌フライデーの訪問取材(ジャーナリスト•須賀康氏)に対してBは、「(Aさんの自宅には事件後)一度も行ってはいません」「この3月に高校を卒業しました。就職も決まり、4月から働きます」と答えた。裁判のことを聞かれて父親に電話すると、父親は電話口で「何なんだっ、どういうことなんだっ。こっちからそっちの会社に電話するから」「何が聞きたいんだっ!どういう意味だぁ」と怒鳴って切ったという。

地域で告別式の翌日から「被害者遺族も賛同している」「和解をしている」等のコメントが付いた加害少年への「減刑嘆願書」が回り、5000名余りの署名が集められた。

Aさんに対して、万引き、恐喝の常習犯などと実像とは全くかけ離れた噂が飛び交った。また、遺族が病院で暴れ回り窓ガラスを壊した(後日、病院長はマスコミの取材に対して、このような事実は無かったと証言した。)、女性教師の髪を掴み引っ張り回したなど事実無根の噂が流された。

Aさんについて

複数の生徒が、「校内で揉めた際、◯◯(Aさんの苗字)君は相手の生徒から蹴られたが、やり返さなかった」「けんかになっても◯◯(Aさんの名前)は絶対に手を出さなかった」、「◯◯(Aさんの苗字)君とけんかになった時、僕は◯◯(Aさんの苗字)君を殴ってしまったが、あいつは絶対に暴力は振るわなかった」「◯◯(Aさんの苗字)君は日頃、『俺は友だちを殴れない。殴ったら仲直りできなくなるから』と言っていた」と言っている。

以前からクラスの中でいじめがあると、体を張って止めに入ったりしていたと多数の同級生が証言している。1年生の時には学校から「正義感賞」を贈られている。2年生の時には学級委員長を務めた。

Aさんは小学校から地元のサッカースポーツ少年団に所属して活躍していた。6年生でキャプテンを務めた。また、中学校でもサッカー部の部活動で2年から3年の引退までキャプテンを務め、茨城県南部選抜にも選ばれた実力の持ち主で、将来はJリーガーを目指していた。
人望もあり、明るく優しい性格だったと子どもたちは追悼文集に書いている。

事件当日の2時間目、道徳の授業の感想文の中で、「両親にとっては僕の誕生はこの上ない喜びだったろう。自分の命を大切にして生きていきたいです。」と書いていた。

Aさんはスポーツ少年で健康体であり、中学入学時に採った心電図には全く異常は見られなかった。

家裁の対応

警察から「捜査は終了した。家裁に全てを送付した。」と告げられたため、事件直後より両親が独自に調べた資料を家裁(水戸地裁土浦支部)に送り続けたが、家裁からは連絡は一切無かった。一方で、加害者の父が地域の人に「◯◯(Aさんの苗字)の家は、あんな耄碌した老人を証人に呼んで大丈夫なのかね?」と話しているとの噂から、両親が送った資料はそっくり加害者側に開示されていたことが判明した。

家裁調査官との面接が2回あった。第1回目に両親が遺影を持って行き、「この子が被害者の◯◯◯◯(Aさんの名前)です。見て下さい!」と言うが、調査官たちは横を向き、両親には「それがどうした」という態度に思えた。第2回目は約束の時間をかなり過ぎて長時間待たされた挙句の面接で、「本日は我が子が風邪をひいて学校を休んでいるので早く帰らねばならない。これで失礼する。」と切り上げられて何も伝えることができなかった。

少年審判と加害者の処分

1998年11月19日 少年審判開始 Bは「一対一の素手によるけんかで、(Aさんの)お腹は暴行していない」と供述した。

1999年8月25日 異例の10か月以上の審判を経て加害少年を保護観察処分とした。
遺族はマスコミからの問い合わせで初めてこのことを知った。審判結果はマスコミにはFAXで通知がされるが、被害者遺族には一切連絡はない。

決定では喧嘩の対応について、①顔の傷はAさんが砂利道に倒れ込んだ際に生じた。②関係者の供述から、同級生(B)は級友を路上で待たせ、2人でけんかした。③級友らが口裏を合わせる時間的余裕はなかった-と結論付けた。

死因について家裁は、県警官邸とは別に独自の鑑定人(帝京大学の石山昱夫教授)を選定して死因鑑定を行った結果、「体質、けんかの際の興奮状態、同級生の暴行が起因した、心筋の壊死性変化(ストレス心筋症)」(鑑定3)と認定した。更に「自らの行為が被害者の死亡につながったことを深く反省している」「少年は現在、高校生として平穏な生活を送っており、警察官である父と主婦である母の観護能力にも問題ない」と保護観察にした理由を説明した。

事件のその後

生前のAさんのことを知る子どもの親を中心に「◯◯◯◯(Aさんの名前)君事件の真実を知る会」が結成された。

遺族は裁判を闘うことと同時並行して、子どもたちが二度と誰も殺さない、殺させない、同じ悲しみを繰り返さないための活動に取り組んだ。

Aさんの死後、牛久市立牛久第一中学校は子どもたちが授業妨害をするなど荒れた。

民事損害賠償請求訴訟

第一次訴訟【加害者とその両親に対する裁判】

提訴

2000年3月2日 少年審判では心電図や血尿が付いた下着など遺族が主張した重要な証拠は一切採用されず、加害者の言い分のみが通っていて、どのような暴行が加えられたのか「犯行態様」と、何が直接の原因で亡くなったのかの「死因」の真実は明らかにされなかった。Aさんの遺族は、「息子がどうして死んだのか、親として真実を知りたい」と、「知る権利」を求めて提訴し、非公開の少年審判のあり方に一石を投じた。

第一時訴訟の争点

少年審判で検察側が認定した「ストレス心筋症」(持病による突然死)というAさんの死因を巡って、原告側はブリーフに付いた血尿の鑑定結果を証拠に「暴行死」を主張した。

被告側は下着に付いた血を「(血尿ではなく)緊急処置をする時に、カテーテルをいれるために切った際に付いた血である」と主張した。

獨協医科大学教室の徳留省悟医師らが、検査の結果、Aさんのブリーフとズボンから尿と血液が検出されたという内容の報告書を作成し、提出した。(治療の際ではなく、身に付けていた状態で腹への暴力で内臓破裂し、死亡した際に血尿として流れたという原告側の主張を裏付ける有力な証拠となった。)

2001年9月5日 法廷で上野正彦医学博士(元東京都監察医務院長)が、スボンと下着の血尿や遺体の写真から「腹部を強く蹴られたための神経性ショック死」と証言した。暴行態様も、「お腹を殴られるか蹴られるかして前屈みになり、起き上がろうとしたところを腹を蹴られて倒れた。その時に血尿が出た。」と解説した。

一審(東京地裁)

2002年3月27日 片山良広裁判長は、被告(加害少年とその両親)に対して、約5600万円(請求は1億円)の支払いを命じた。

判決では「腹膜にリンゴ大の鬱血があることから、被告少年の決して軽度とはいえない打撃に相当の因果関係がある」として、Aさんの遺体を解剖した三澤医師や法廷で証言した上野医師が診断を下した「神経性ショック死」と認められた

事実認定に対しては、他に目撃者がいないことを理由に、「一対一のけんか」であり、被害者が一方的にやられたという証拠はないとした。

そして、「◯◯(Aさんの名前)君が、特に理由もないのに加害者にけんかをしようと持ちかけた」として、2割の過失相殺を行った。(尤も、Bについても、放課後にわざわざジャージに着替えており、「今日、けんかをする」と公言しており、けんかをする気満々であったと認定している。)

控訴審(東京高裁)

2002年4月 Bとその両親が、一審判決を不服として控訴した。
原告側の強い要望にも拘らず、裁判所はBを法廷に証人として呼ぶことを拒んだ。

2003年11月10日 久保内卓亜裁判長は一審判決の内容を変更し、控訴人は原告各人(父母)に2024万円の支払いを命令した。過失相殺は4割5分(B5.5、Aさん4.5)

控訴審(最高裁)

2004年11月1日 最高裁第2小法廷(津野修裁判長)は、一度も法廷で審議することなく両親側の上告を棄却し、2審判決が確定した。

第二次訴訟【国•県に対する裁判】

提訴

2000年3月9日 「身内の事件潰し」の為、「一対一の素手による喧嘩」という図式が最初から出来上がっており、「不当捜査で被害者が悪いように歪曲された」として、警察及び検察捜査のあり方を問い、Aさんの遺族は国(水戸地検土浦支部)と茨城県(茨城県警)を相手取り、計1000万円の損害賠償請求を求めて提訴した。

一審(水戸地裁)

2004年5月7日 水戸地裁は、Bを証人として東京の法廷で尋問することを決定したが、少年側は出廷を拒否した。

2007年9月26日 水戸地裁は訴えを棄却した。

第三次訴訟【学校設置者である牛久市に対する裁判】

提訴

学校側は卒業式や地区懇談会などで、「今回の事故(事件)を風化させないように」と言っているが、事件の真相を調べようともせず、知っている事実を遺族に教えようともせず、全く誠意を感じられないとして、学校の安全配慮義務違反と、校長•教頭•教師らの遺族への不当な対応を提訴した。

一審(水戸地裁土浦支部)

2002年5月15日 水戸地裁土浦支部は訴えを棄却した。

原告(遺族)が訴えていた5つの点全てについて棄却した。
1. 一人の生徒が死亡するという重大な事件に対して、学校の安全配慮義務違反を問う
2. 事件に関する事実調査を怠った怠慢
3. 学校が様々な事実を知りながら、遺族に情報を開示せず隠匿したことで与えられた遺族の苦痛
4. 教頭その他がマスコミその他に嘘の情報を流し、被害者の印象を悪くしたことに対する侮辱と名誉毀損
5. 教頭が警察に対して殊更、被害者の否定的な面ばかりを供述したことへの名誉毀損
など全てにおいて、証拠などにより、その主張が認められないとした。

控訴審(東京高裁)

2002年5月27日 Aさん側が本人訴訟で控訴した。
9月30日 東京高裁民事第22部 石川善則裁判長は全面棄却した。

控訴審(最高裁)

2009年2月25日 東京高裁 大坪丘裁判長は全面棄却した。

参考資料

日本の子どもたち1

  1. 2016年6月5日に武田さち子様より掲載許可を頂きました。
この記事をSNSでシェア!

FEATURES & SERVICES

LOCATION ON MAP

CONTACT OWNER

NEW SEARCH

この記事をSNSでシェア!
テキストのコピーはできません。