事件の要因
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石田僚子さんは犠牲者であった

高橋 智子(元高塚高校教員)

 高塚高校校門事件は、今だったら検証委員会を立ち上げ、委員による検証が終われば報告書が発表される事件であった。神戸東須磨小学校イジメ事件は、市が設置した第三者委員会のヒアリングが始まっているようだ。
 “週刊文春”の取材によれば、イジメが横行する校内環境が醸成された責任は、A前校長にあるらしいとのこと。神戸市幹部も“週刊文春”の取材に『正直、一連の問題に関する責任の度合いについては、現在の仁王美貴校長よりもA前校長の方がはるかに大きいと思っている』と語ったとのこと。地元のマスコミ関係者によると『第三者委員会は11月中旬の土日を目途に中間報告を行い、年内には最終報告を行う予定。(中略)今後は、彼らのイジメを見逃し、自身もパワハラ行為があったとされるA前校長も懲戒処分の対象となるかどうかが焦点になりそうです』とのこと。
 校門事件の時は、兵庫県教育委員会が早々と『一生徒と一教員の問題だ』とマスコミを通じて公表した。『県教委は関係ありません』と言いたかったのであろう。しかし、毎日高塚高校で生徒と向き合っていた教員である私には、県教委の責任逃れとしか見えなかった。
 東須磨小の事件は校長に責任を取らせればすむが、校門事件は校長に責任を取らせればすむような問題ではなかったからだ。三十年後の今からでも検証してほしいことがある。

一、施設・設備が法令に即していたか。

三十年前を思い出して見ると、以下の事が浮かぶ。

  • 教室:机間が狭く巡視できず。教室には机が47並んでいた。両端の窓側に6つずつ、その間に7つずつ5列並んでいた。教室の数も足らず、特別教室は全て普通の教室として使っていた。
  • 運動場:体育館を使っても体育の時間割を組むのが大変と体育の教師が言っていた。放課後の部活動も思うようにできなかった。陸上部だけでも100人を超える部員がいた。槍投げの練習をしていて見物していた生徒の肩に槍が刺さった事件もあった。テニスコートは運動場とは別の場所に四面しかなかった。一年生は毎日走るばかりの練習で、それに嫌気がさして退部する生徒がいたようだ。
  • 体育館:一年生は卒業式の日は休み。保護者が出席するので体育館に入りきれないためである。夏の全校集会では、二人か三人は倒れる生徒がいて保健室に運んでいた。体育館はとても暑く、満杯になっていた。
  • プール:男子は全員プールの横で着替えていた。女子は家から水着を着てくる生徒やトイレで着替えている生徒がいた。遅刻したら水着を着たまま運動場を走らされた。プールの水が汚れるので、塩素が出る物質をよく投げ入れていると体育の教師から聞いた。水泳の後、目を赤くしている生徒がいた。
  • 廊下:10分の休み時間は廊下が生徒でいっぱいになり、なかなか歩けなかった。休憩時間にたばこを吸いたい教師はベルが鳴る少し前に授業を終わり、さっと廊下に出て職員室に帰っていたそうだ。(本人から聞いた)
  • 道路:通学時間帯は西神中央駅から学校までの歩道が生徒でいっぱいになり、生徒以外の人が通れず、苦情の電話が学校によくかかってきた。

二、火災があったとき、安全に校舎から外に出られたか

消防署員が来て消防訓練をしたとき、全員が校舎から運動場に出るまでの時間が、決められている時間をオーバーしていた。消防署員が、これでは火災があった場合死人が出ると言っていた。しかし、その後も何も変わらないままだった。

三、教員や校務員の数は法令に基づき採用していたか

法令に不備はなかったか。組合の人に聞いたら、一学年8学級までしか決めてないと言っていた。それ以上はドンブリ勘定だとのこと。そうであれば、誰がどういう場で決めたのか。責任者は誰か。

四、職員会議の変遷

事件のあった1990年ごろは、職員会議で危険なことを議論し、いろいろ要求もしたが、県教委は高塚高校を“危険な学校”の指定校に決めただけだった。その後、教育委員会の方針で県下すべての高校で職員会議は校長の言うことを聞くだけの伝達の場となった。

五、常任講師の仕事の内容は妥当だったか

当時高塚高校には、常任講師は男性も女性も何人もいた。私から見て本採用の教師と彼らとの間で仕事の内容は全く同じに見えた。授業も公務分掌も部活動も同じように分担していた。中には担任していた人もいた。しかし生徒指導部長は、気を使って校門当番の当番表には彼らを入れていなかった。
ところが、ある女性の常任講師が校門当番しますと申し出、指導部長は彼女を当番表に書き込んだのだ。事件の後このことを彼は悔やんでいたが、私がその立場でも断れなかったと思う。
その後、仕事の内容を誰かが彼女に話しておけば、七月六日の事件は起こらなかっただろう。彼女は始めて見る光景にビックリし、『早く歩きなさい』と大声で叫びながら門から離れていったようだ。
校門当番は、三人でチームを組んですることになっており、一人(男性)は校門に続くフェンス(運動場と歩道の境)の端まで行って『早く歩きなさい』と指導、一人(女性)は校門が閉じる所にいてストッパーの役割、もう一人(男性)は重くて長い校門を閉める役割。これまで校門当番をしてきた教員の間には、このような共通認識があった。七月六日に門の内に入って門を押して閉めた教員もそう思っていたことだろう。(私が当番のとき見た教員は門の外側にいて、生徒を見ながら両手で門を引っ張っていた)
この閉め方だと、事件は起こっていなかったであろう。学校という職場はチームで仕事をすることが多く、正規と非正規との間でお互いに気を使い合ってしんどい思いをしていて、その間で起きた事件であった。

六、メディアは何をしたか

昨夜 (2019-11/15) 東京新聞記者の望月衣塑子さんの講演会が三ノ宮であったので聞きに行った。講演によると、現在日本のマスコミは殆ど政府の広報機関になっているそうだ。中には望月さんのように国民の知る権利に応えようと日夜飛び回っている記者もいるが、そういう人はバッシングを受けたり、質問しても無視されたりしているそうだ。
もし30年前に望月さんが記者をしていて、高塚高校校門事件の記事を書いたらどんな記事になっていただろうと想像してしまった。
当時の記者が何人か私のところへ話を聞きに来たが、私が書いて欲しかったことを書いた記者はいなかった。
フリージャーナリスト(20歳代の神戸市出身の男性)が押部谷のガストまで来て時間をかけて話をして行った。神戸の高校の事は自分の体験を通して分かっていることもあり、話は通じた。既に県教委へは取材に行ったそうであるが、話をしてくれる職員はいなかったといっていた。
メディアの情報を元に作り上げた石田僚子さんのイメージは、茶髪でいつも遅刻しているいわゆる不良少女だった。これは私の推測ではない。東京に住んでいる私の友人2人が、事件の後心配して神戸まで来てくれた時、彼女らから聞いたことである。それを聞いて私は、せめてこのイメージを正したいと思い、事件直後から校門事件について考える活動を続けている市民の人たちと行動を共にしてきた。
この文章を書いているのもその一念からである。
先日、小学校の塀が倒れ女の子の小学生が一人亡くなったというニュースを聞いた時、私にはその女の子と石田僚子さんが重なって見えた。
石田さんは犠牲者だったのだとはっきりわかった気がした。
亡くなった女の子も先生の言うことを聞いて、塀に寄り添って歩いていたとのこと。
石田さんもこれまで遅刻したことは一度もなく、校門指導で門を閉めていることも知らなかったに違いない。この事件の後、朝の閉門を知らなかったという生徒が沢山いた。
だからびっくりして、一緒に登校してきた友人は歩を止めたのに遅刻することの恐怖心から一人飛び込んだのであろう。遅刻の常習者だったら、していなかったに違いない。
県教委が事件の後すぐに『一人の生徒と一人の教師の問題』と責任を限定したので、マスコミはそれを拡散するような報道をしたのであろう。マスコミも三十年経った今、自ら検証して欲しい。

七、組合は何をしたか

分会が兵教組と高教組に分裂した年だった。私は日教組の兵教組に属していたが、組合が何をしていたのか分からなかった。門を押した教員は高教組に属していたが、事件後すぐに退会したようだった。

八、県教委が校門を溶かしたのはなぜか

私たち教員の間では永久保存を望んでいる者もいた。教員の知らない間に跡形もなく溶かしてしまった。

九、県会議員の視察

試験中の午後、県会議員が生徒のいない校舎を見て帰った。どんな報告をしたのだろう。

最後に、市民の中から検証委員を求め、検証委員会が立ち上がることを願っている。
時間に拘らず、気長く進めて行けば良い。もし報告書が出来上がれば、後世の子供たちの役に立つであろう。

参考資料

  1. 告発・兵庫県立神戸高塚高校 “ 圧死事件 ”『先生その門を閉めないで』
    編者:保坂展人&トーキングキッズ、発行:(株)労働教育センター、1993-9/30 第1刷
  2. 私の『校門圧死事件:校門の時計だけが知っている』、著者:細井敏彦(門を閉めた人)、
    発行:草思社 ,1993-4/20 第1刷

保坂 展人 (編), トーキング・キッズ (編) 労働教育センター 1990年刊

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