「共感」について

竹田マガラ
映画「クロッシング•ガード」を見た。監督ショーン•ペン、主演ジャック•ニコルソンだった。ショーン•ペンは少し前「デッドマン•ウォーキング」でその死刑囚を演じた人です。そして、あの死刑囚を演じた人だからこその今度の作品だなと思った。未だ見ていない人は、ぜひ、この2本を続けて見てください。
「クロッシング•ガード」のあらすじは、飲酒運転をして少女をはね、死なせてしまった男と、その少女の父親との葛藤を描いたもので、5•6年の刑期を終えて出てきた男を、少女の父親が殺そうとする。ピストルを持って乗り込むが、弾が入っていなかった。3日後に必ず殺しに来ると言い放ってその場を去る。その3日間のドラマである。
3日後最後のシーン。少女の墓前で、父親は自分が殺そうとした男に手を差し延べ「許してくれ」と言い、二人の男の手が重なる。
死なせてしまった男の苦しみと、娘を失った男の苦しみが、その「苦しみ」という一点において「共感」したのではないかと思う。
被害者と加害者ではあるけれど、片方は何年も自分を責め続け、片方は何年も憎み続けてきた。その苦しみの深さ故の「共感」ではないだろうか。
先日7月6日、石田僚子さんの7回目の追悼集会で配られた高木慶子さんというシスターの書かれた文章の中に「共感」という言葉があって、その2文字がとても大きく私には見えて、常日頃ふつふつ思っている私の中の想いと重なったところだったのだ。まさにこの映画には「共感」こそが描かれていた。
私はビックリした。あまりにも見事で。この感覚こそが今私が抱えている苦しみ、多くの人々が抱えているどうにもならないと思えるような苦しみを解いていく手助けとなるのだ。不誠実と思われることをした人はまわりの人々からはなじられる。罪を犯した人は、国家と世間という名前の個人から裁かれる(時には死を持って)。
でもそういった場に立つのは明日は私かも知れない。いや、確かに私だ。そしてあなたです。「私はそんなひどい人間じゃない。」と思うかもしれないけど、私たちはお互いさま愚かでとってもあほうな生き物です。神戸の痛ましい事件の少年の顔写真をいろんな形で公表している人々がいる。明日は自分だってどうなっているとさえ思えない「セイギ」のプラカードを掲げた貧しい魂でこの国はいっぱいだ。

クロッシング•ガード
ジャック•ニコルソン(出演), デヴィッド•モース(出演), ショーン•ペン(監督, 脚本) / 1995年11月16日公開
<内容>
幼い娘を自動車事故で失ったフレディ(ニコルソン)は、その犯人ジョンの過失を許そうとせず、刑期が終わるのを指折り数えて待っていた。フレディの頭の中には報復の二文字しかなく、そんな彼に妻(ヒューストン)はとっくに愛想を尽かし、よその男の下に走っていた。
デッドマン•ウォーキング
スーザン•サランドン(出演), ショーン•ペン(出演), ティム•ロビンス(監督) / 1995年12月29日公開
<内容>
カトリックのシスター、ヘレン•プレイジョーンは、ある死刑囚から文通相手になってほしいと依頼される。囚人の名はマシュー•ポンスレット。10代のカップルを惨殺した容疑で死刑を求刑されていた。ヘレンは文通を始め、面会を重ねるうちに、死に怯えて反抗しながらもなお無実を主張する男に心を突き動かされるようになる。事件の遺族や刑務官たちとの出会いは、ヘレンの当惑をさらに深めた。彼女は自問する。目の前のこの男が本当に殺人を犯したのだろうか。そして、死刑という暴力を繰り返すことで何を得られるのか、と。それは自らの信仰の試練でもあった……。
Sponsored Link






