石田僚子さん追悼第8回集会

集会に参加しながら思うこと。高塚高校の事件から8年、その後も学校をめぐる悲しい事件は後を絶たない。私たちとて何かわかったとか良くなったということもないけれど。
僕などはただこの8年間弁護士さんの法廷での闘いのその尻馬にも乗れなかったけれど高塚のことが起こった時、殺された少女に自分を重ね、ときにまた殺した教諭に重ね、ともかくも自分のこととして考えようとしたけれど、何かしているという意識は勿論ないしまた出来るわけでもなかった。ただ問い続けていこうと思っていたしこれからもそうするだろう。加担している自分というものを自覚し自分がどう変われるか。建前でものを考えたくないし、心にもないことを言ったり、人と合わせたりはしたくない。本当にやりたいことをしていけたらいいけど勉強もしないととは思う。とにかく楽しいことはみんなでしよう。本当はもっと建設的になれればいいんだけれど、この集会も集まる数も少なく、ということでマンネリズムと言われながらもまあそれなりに有意義な集まりになったのではないかと僕は思いました。
それから学校というのは権威主義的でおまけに自由でないので昔から嫌いなのですが、それでももう少し血が通っているなら救われると思うのだけど、高塚高校の事件でも、他の件でもそう何か根本のところで腐っている気がする。まず学校の中ではじめに子供たちの自主性、主体性が奪われていること。次に子供たちと教師との信頼がないこと。内的な動機や必要性の説明も醸成もないままバラバラな知識の詰め込みがおこなわれ評価が下される。子供たちの阻喪や怠業や反抗や反乱の意味が正当に評価され理解されないし、管理の中での個別の逸脱として落ちこぼれ扱いをされたり、教師からの制裁を一方的に受けたりしている。これではそれでメシを喰っている大人の都合で子供をくいものにしているのではないのかと思ってしまう。最後に硬直した学校の状態は、「遅刻したんだから落ち度はある」とか「茶髪だから仕方ない」などと言い出す子供たちや親の出現でもって最終的に学校ファシズム的状況が完成する。




