石田僚子さん追悼10周年記念特集
石田僚子さんという実名を使って来た理由
私たちの会は、会発足当時から『石田僚子さん』という名前をそのまま使って来ました。
日常的に「石田さん」「僚子さん」と言っていることもあって、あまり疑問も持って来なかったのですが、マスコミ報道もあったこと等から改めて考える機械になりました。
確かに、追悼をする一方で「神戸高塚高校校門門扉裁判」を起こし、最高裁まで続けて来ましたからそのことを掲げることもできました。でも7月6日は、誰でもない『石田僚子さん』の殺された日なのです。人権やプライバシーを考えると実名を使うことに問題があるのかも知れません。でも私たちにとっては、いち少女ではなく『石田僚子さん』なのです。存在そのものも、人格もことごとく破壊しつくされ、汚名まで着せられた彼女に対して私たちのできることは、『石田僚子さん』という名前を忘れずに、追悼をし続けることぐらいしかないのではないでしょうか。あなたは、どう思われますか?
マスコミ報道について
今回、文集を作る一方で、積極的にマスコミに働きかけました。記者クラブでの発表こそしませんでしたが、(この方が一回ですむので楽なのですが、それはしたくなかったので)1社あたり1時間〜2時間、連日取材に応じました。そして、会員の中で取材に応じられる人を紹介しました。自分の目と足で確かめ、自分の感覚で書いてくれるよう頼みました。出会った記者の人たちは、皆まじめにこの問題に取り組み、多くの人に会い、記事や映像にしてくれたと思います。それを見た、何百、何千、何万の人達が語ったり、思ったりしてくれたことによりどれだけ魂が癒されたことだろうと私は思います。
今回の報道は、少なくとも以前のような、“遅刻する者が悪い”又“後5分早ければ”というような馬鹿げた発言をそのまま載せるような社はなく、問題の本質に少しでも迫ろうとする姿勢が感じられました。あなたは、どう思われましたか?
追悼10周年記念ということについて
1999年4月11日、阪急六甲にあるあこや亭に集まった人達で『文集』を作ろうということが決まりました。その年の9月の通信で、原稿の募集をしました。締め切りを大幅に延ばし、2000年6月18日ちびくろ保育園で、印刷、作成しました。プロ級の腕で印刷では小野さんが、製本では田中さんが、他森池さん、泉さん、池細君、皆汗だくになって作りました。ロクタ紙の裁断は、藤田さんが、化粧断ちは、印刷屋さんが格安でしてくれました。必ずしも10年ということにこだわったわけではありませんが、それが10年目になったということです。





