兵庫県立神戸高塚高校校門圧死事件

校門圧死事件11周年に思うこと

弁護士 平栗勲

石田僚子さんが校門圧死事件でなくなってから、早や11年になります。
この11年という歳月は、あっという間に過ぎ去りましたが、事件は未だに私の心の中にずしりと重いものを残しています。
しかし私などより、僚子さんの両親と弟さんにははるかに重い心の桎梏として残っているはずです。私が事件依頼を受けたのは事件発生後1週間ほどしてからでした。当初、新聞でこんな事件があったのかと驚き、まさか通学途中の生徒が教師の閉めた門扉に挟まれて死亡するなどということ自体考えられないことでした。ましてそのような事件の被害者の家族から事件の依頼があるなどということは予想だにしていませんでした。私が知人を介して事件の相談を受け、初めて神戸市西区の石田さんのお宅をお邪魔した日のことは今でも鮮明に記憶が甦ってきます。当時、マスコミの反応はすごく、報道合戦で未だ小学生の弟にさえつきまとい、通学もままならず、学校の先生に登下校を送り迎えしてもらうほどで、お母さんは買い物にも行けないので隣家の人に食料品を買って来てもらうという状況でした。聡明で自慢の一人娘を、いわれなき理不尽な方法で死に至らしめられたというのに、家族はそれを悲しむ余裕もないほどの報道被害に遭い、自宅で世間の目に曝さないようひっそりと生活していました。
まさに報道による二次被害が生じていたのでした。私は、まず最初にこの問題を解決しようとマスコミと会見し、以後、被害者としてのコメントは全て代理人を通じてなすことにし、被害者の家族は一切マスコミの直接の取材を受けず、マスコミも遺族に対する取材をしないという約束をしてもらいました。このため現在もなおときにマスコミのコメントを求められることがありますが、遺族は一切直接の取材を受けることはありません。このようにして落ち着きを取り戻した僚子さんの家族は、あらためて僚子さんを亡くしたことの意味を問いかけ、学校側に詳細な事実経過の説明を求めましたが、その内容はとうてい十分なものではありませんでした。当事者の細井教諭に対しても説明を受けようとしましたが、既に警察の捜査が進行中であり、直接の接触はむろんのこと書面等による説明や謝罪の言葉も聞かれませんでした。
 私も、高塚高校の正門前に立ち教頭の説明を聞きながら、実際に校門を押してみて細井教諭の行動を再現してみようと思いましたが、前方から多く駆け込んでくる生徒がいるにも関わらず、その直前で校門を閉め切った細井教諭の行動はとうてい理解できませんでした。
 細井教諭の行動の背景を理解するため、教職員組合分会の人たちと討議をする機会も持ちましたが、当時の兵庫県における中等教育の管理教育の実情は理解できたものの、それでもなお細井教諭の行動と直接結びつけて理解することは容易ではありませんでした。ことは細井教諭の個人的な資質の問題であるのか、管理教育の行きすぎた弊害として、その延長線上で必然的に発生して来たものであるのか、その答えは見出せませんでした。しかし少なくとも、当時の高塚高校における管理教育の実態が大きな背景として存することは明らかなように思われました。僚子さんの両親にとっても同様で、私は両親とこの問題について何度か話をしました。しかし両親にとっては、かけがえのない娘を亡くした現在、この問題を議論しても亡くなった娘が帰ってくるはずもなく、議論すればするほど僚子さんを亡くした悲しみがつのるばかりであり、マスコミ等を通じて伝わってくる議論については大きな関心を持ちつつも、自ら発言することはとうてい出来ませんでした。
 事件から11年経過した現在も、僚子さんの家族は世間の目から隠れるように生活をしています。一度味わったマスコミからの二次被害を避けるように。当初から被害者であり、松本サリン事件の被害者河野さんとは全く異なる状況であるにもかかわらず、マスコミの過剰報道が如何に被害者をも窮地に陥らせるものであるのか、その一端を示す事件でした。
家族は今も毎年、僚子さんを想い四国遍路の旅を続けています。世間の耳目を引くことも少なくなった今こそ、家族にとってかけがえのない僚子さんのありし日の姿が強く心に焼き付いているようです。

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