エッセイ

花を着る─着物にたくされた花鳥風月─

公庄れい

 この表題の展覧会が一◯月十六日から武庫川女子大学で催されている。それに関したパネルディスカッションの冒頭、主催者側から着物の文様として花柄が、収蔵している着物全体の中で圧倒的に多いことが報告され、その花の咲く季節に少し先んじて着用するのを良しとする常識が定着している事などが話し合われたが、植物が持っている生命力の象徴である花柄を身につけることによって、その生命力にあやかるという考え方が強かったのではないかと私には思われる。
 江戸末期から明治にかけて来日したヨーロッパ人達は、日本列島の多様で豊富な植物に驚いたという。そして現代も当時に比べると減少してはいるものの、植物と、その植物が育てている昆虫などの種類は、非常に多いそうである。
 伐っても、切っても、抜いても、むしっても、瞬く間に繁茂する植物の生命力に、この列島に住む人達は畏敬の念を抱き、その花の文様を身につけることによって、自らも健やかな命を全っとうしたいと願ったのであろう。
 これは花柄ではなく植物から採る色のことであるが、昭和三◯年代頃までの高野山奥の花園村では、子供の誕生祝いに男児には黄色の、女児には赤のモスリン布を贈る風習があった。元々黄色は黄檗(キハダ)、赤は紅花の色でともに薬用植物である。キハダは健胃剤、ベニバナは婦人病の薬として用いられており、共にみどり児の身体を植物の生命力が凝縮された色で包み成長の無事を願うことであろう。
 富裕層では絹布が使われていたと思われるが、当時の庶民は安価で鮮やかな色のモスリンを使っていたのも一つの時代の風を現すものとして、私には興あるものに思える。
 万葉集巻一の有名な歌、
  あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る
にも茜(通経、浄血、解熱、止血、強壮)、紫草(皮膚病)と二つの薬草が詠み込まれている。その植物の一番盛んで美しいと人が感じる花を衣類の文様として身につけることによって健康を願うという事は、医学の発達していない時代には人々の自然な願望であったと思われる。
 しかし庶民が花柄文様を身に着けられるようになるのは、明治も後期になってからである。この花園では昭和初期には婚礼衣装ですら縞のお召しであったという。私の夫は福知山出身である。福知山を通って日本海へそそぐ由良川は、この度も災害を引き起こしたが古来氾濫を繰り返すあばれ川で、川沿いの土地には広い範囲で出水に強い桑が作られていたのだという。で、丹波太物として有名な木綿の丹波織にも部分的にくず繭から引いた絹糸を織り込み、その光沢と軽さを庶民の女は、ささやかな楽しみとしていた。
 明治末年生まれの夫の母は、自らの小学校の卒業写真を私に見せて、この子の家は金持ちやったと言った。縞の着物を着た子供達の中に一人だけ絣の着物を着た男の子がいたのである。福知山近在の農村で、その地域では分限者といわれる大きな百姓家の末娘であった母も縞の着物を着ていた。絣すら贅沢品であった庶民の衣生活に花柄模様が入って来るのは、モスリンという外来の織物が、機械による捺染プリントという技法を伴って入って来たからである。大正期から昭和五•六年にかけて生産調整を繰り返すほどの大量のモスリンが巷に放出されたが、1980年代に私がモスリンにかかわっていたころ、神戸で話を聞いた神戸市近在の農村出身の何人かの人達は、モスリンの着物の事を”あの金持ちの着物”と言っていた。これは単なる貧富の差ではなく情報の差による所が大きいとおもわれるが、とにかく、今は誰もが気軽に身につける花柄についての意味を考えさせられる一例であった。
 この度の武庫川女子大の展覧会場には私の母の昭和六年着用の婚礼衣装の黒留め袖も並んでいる。きらびやかな花柄模様の中で赤や金銀などの派手な色彩は一切使っていない母の着物の文様はちょっと異質である。菊と薔薇と細かな松葉の上に鳳凰が舞うという図柄だが、薄茶からベージュ、淡いグリーン、それらすべての色がごくごくうすいグレーの下から浮かび出しているという、アールヌーボウの影響を強く受けた文様である。こんな洒落た着物を紀州の山奥の寒村の娘がどうして身に着ける事が出来たのか。
 それは、この着物を母のために選んだ一人の女性の数奇な生涯に関わっているのだが、花嫁衣装といわれる物を身につけて婚礼に臨んだのは花園村で二人目であったというのが、当時の寒村の実情であった。これも単に貧乏だからというのではなく、そういう風習がこの地に及んでなかったという事で、現在のように世界中の若者がほぼ同じような格好をしている社会からは考えられない事である。

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