少年犯罪

少年法との出会い

ー80年代の少年事件第3のピーク•阪神大震災•神戸須磨事件ー

社会人法学部生 元国語科教員 篠崎俊博

 神戸市須磨区南部に生まれた私は、校区の西須磨小学校•鷹取中学そして神戸市立須磨高校に進学しました。高校学園紛争の時代で、須磨高校は全国でも十指に入るほど「学生」運動は盛んでした。私自身はノンポリでしたが、学校のみならず社会全体が水俣病や連合赤軍浅間山荘事件、さらには「長沼ナイキ基地訴訟」の札幌地裁•自衛隊違憲判決など、非常に「あつい時代」でした。そのような時代に高校生活をすごしたことは私の人生にとって、とても有意義であったと自負しています。
 80年に神戸市の中学教員に採用されました。長田区のA中学です。第2学区と第3学区の調整学区でした。83年に隣接する須磨区のB中学に異動しました。B中学の校区は長田区と須磨区にまたがっていますが、高校進学は第3学区です。89年3月までB中学にいましたので、教え子の中には「高塚高校事件」の被害者石田僚子さんと同学年の生徒もいます。また事件当時の高塚高校PTA会長の子どもさん2人とも、B中学で教えています。
 中学には9年間勤めましたが、A中学3年間とB中学でのはじめの3年間は、今日ならば「指導力不足教員」として分限免職処分を受けても仕方がないような状況でした。具体的には、80年代、中学校の校内暴力が全国的にひろがり、それに対して学校•教育委員会は徹底した管理教育でもって対処していました。体罰、暴言、非常に細かな校則などでもって生徒を管理していました。私もその一人でした。今日、慙愧に堪えず、とても人前で話をする資格などありません。当時の保護者や生徒に出会えば謝罪•釈明しています。
 この80年代の校内暴力が、少年事件第3のピークです。当時の少年事件の直接の原因は、教師による徹底した管理教育です。
 89年4月に須磨区北部の神戸市立C高等養護学校に異動しました。
 そして95年1月、阪神大震災が発生しました。A中学の校区も大きな被害がありましたが、B中学はさらにひどい惨状でした。校区の3分の2は一面焼け野原と化しました。
 しかし、そのような惨状の中で、かってB中学校で、多くの指導を必要としたある生徒が、がれきの山と化した自宅を、一生懸命に掘っている姿を見たときは驚きました。また高層の市営住宅が数度傾き、余震で倒壊の恐れがあるため、住民は3日以内に避難するよう指示が出され、すぐ前の四車線道路は通行禁止としていました。その市営住宅には、当時の生徒たちもたくさん住んでいます。そして仲間たちが集まって、エレベーターが使用できないため、階段を使って必要なものを運ぶのを手伝っているのです。
 「あれだけ暴れまわっていたものが••」と、目の前の活躍にはほんとうに驚きました。
 少年事件の加害者は、家庭状況などが原因で、思春期に一時道を踏み外すこともあるけれども、必ず立ち直ることをこの目でありありと知らされました。
 震災2年後、私の住む須磨区友ヶ丘で、全国を震撼させた神戸須磨事件が起こりました。そしてきわめてセンセーショナルな少年法バッシングが今も続いています。2000年に少年法は厳罰化「改正」されました。しかし非行少年の更生を私はこの目でありありと見てきましたので、それ以前から「改正」の反対運動をしています。今は付帯決議である01年4月施行「5年後の見直し」に向けて、運動を続けています。
 一人でも多くの方が、ともに子どもの人権を保障する運動に参加されることを願います。
 ※7月11日は、80年代の様子を中心に、お話しする予定です。

5月22日記

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