追悼集会

子どもたちの可能性にかける [講演]

弁護士 野口善國

 今日は、ちょっと体調が悪くて追悼の集いに出られなくて申し訳ございません。ちょっと声の調子が悪くて私の声が聞き取りにくいかもしれません。あらかじめお詫び申し上げます。
 1990年の今日亡くなられた僚子さんが、今生きておられると28歳ということで、生きておられればもちろん立派な若者になって、あるいは結婚して赤ちゃんを産んでということを考えますと、今更ながら尊い命が奪われてしまったという実感と、また一方であれから13年が経ったというのに、子どもたちを巡る状況というのが本当に良くなったんだろうかという悔しい思いがするわけであります。
 私には3人の子がおりまして、今27歳と24歳と22歳ですから、大体亡くなった石田さんと同じ世代の子どもです。1990年当時、私は弁護士会の少年問題の対策委員をしてーというよりは小学校のPTAの会長をしておりましたので、当時は事実上強制されておりました神戸市内の市立中学での丸刈り強制ですね、これを廃止するような運動に取り組んでおりました。主催者の一人の所さんなどがやっておられた運動に刺激されて私も始めたわけですが、1990年の時に次男が小学校6年になりました。事件がちょうどあった日にー私はその日夢を見ましてですね、次男が鼻から口から血を出して倒れているような夢を見てですね、パッと飛び起きたんですね。夢だってわかってるんだけどね、でも子どもを見に行かずにはおられんということでね、ちゃんとうちの子どもおるかいなと思ってですね、子どもを見に行ったんです。次の日ちょっとその話をしましたら、「朝っぱらからそんな縁起の悪い話を…」と子どもからえらく怒られたものです。まあ一般的にはとんでもない事件だというふうな印象を持ちますけど、私にとっては自分の子どもでもそういう目に遭うんじゃないかという、そういう感覚を植え付けとったんです。というのは、それほど神戸の中学校の管理教育というのは行き過ぎていたと思うんです。今、思い起こしてみると、「靴下は真っ白でなきゃいかん。何かワンポイント、何か飾りがあるといかん。」ですね。それから子どもは全部背番号を背中にくっつけていますよね。体操服のところに全部番号がついているんですね。そうすると「何番何番の奴が悪いことをしてる。」とすぐわかるから後で名前がわかって発覚するということだと思うんですが、非常に管理教育が徹底している。この当時事実上丸刈りを強制していたのはですね、県庁所在地の中では福島、鹿児島、それと神戸だけだったんですね、お互い戦争を幕末の頃にやって似たようなところがあると思うんだけれども、何で神戸でそうなんかと非常に不思議な感じがしたものです。
 この、僚子さんがおられた高塚高校もその延長線上にあったと思うわけで、皆さん大体はご承知と思いますが、高塚高校の校則は「学校内外で集会をする時は校長の許可を得なければならない。保護者の同意と指導がある場合でも休日に旅行する時は出発日の1週間前までに届け出ること。男女交際は保護者の承認と指導の下に高校生としての生活を逸脱しないものであること。」こんなことを言っちゃうと笑っちゃうような感じなんですけど、大真面目でやってたんですね。「上着は授業中担当教諭の許可を得て脱ぐ。自転車はセミドロップ下向き変形ハンドルはだめ。」何のこっちゃよくわかりませんけどね。まあこんなことを決めておったわけですね。そういう校則について現場の教師がどういうふうに感じておったのかというのを見てみますと、生徒指導部という先生の会合なんですが「世間では学校教育の現場の実情をご存知なく、ともすると無責任な発言がしばしばなされる。大変残念である。例えば自由と放埒を混同し生徒にいたずらに規則を非難するといった風潮です。」と。「現在、本校では次の三点を当面の指導の重点目標に挙げています。シャツの第二ボタンを掛ける。下着は白の無地を着用。鞄にアクセサリーは付けない。」下着に白の無地を着用って、どうやって検査するのかと思うんだけど。ちょっと今から考えると笑ってしまうような話なんですが、現実にそういうふうに考えていたことなんですね。
 その頃私はアメリカのニューヨークにいて、ニューヨーク市でハイスクールの子どもたちに配布されている印刷物ー日本語に訳すると『ハイスクールの生徒の権利と義務』ーニューヨーク市庁委員会で作られていたのですがー日本の生徒指導と違って生徒の権利というのがいっぱい書いてあるんですね。権利というのが大半なんです。生徒の義務というのがちょこっと書いてあるんですね。何が書いてあるかと言うとですね、例えば「自分の成績がどうしてこんな成績になっているのかを先生に聞くことができる。あなたに不利な決定に対して校長に不服申し立てをすることができる。不合理な捜索をされない。妊娠しても学校に通う権利がある。性教育とレスリング等の授業、身体の接触を含むために男女別にしなければならないのを別にして全て男女平等の教育を受ける。」そのようなことが書いてありますし、言論と集会の自由とかあってですね、「新聞や文書など政治的なリーフレットを配布する自由がある。政治的な表現の腕章、ボタン、バッジその他を付けてもよろしい。」こういうことが書いてありまして、生徒の義務はどういうことが書いてあるかというと、「自分の行動は自分で説明がつけられるようにすること。毎日登校すること。安全に気を付けること。学校の財産を保護し他人の個人財産を尊重する。おかしい規則があれば生徒会と協議して規則を変えるようにしなさい。」というようなことが書いてあるわけで、日本の校則というのは禁止事項ばっかり書いてあって、えらい違うものだなと認識をしたものであります。
 これを「管理教育」と一口に言いますけれども、一方的な強制や規則によって指導していくという体制を管理教育とすれば、例えばなぜ真っ白じゃなくちゃならないのか、ポイントや飾りがあっちゃいけないのかなんて、なかなか子どもに説明しようとしても説明できないですよね。今の学校ではワンポイントでなきゃいけない学校もあったりしてですね、何のこっちゃ全然わからんわけですよね。女の子が髪の毛を伸ばすと三つ編みしなきゃならないとかですね、ワンレンというのか纏めたらいけないとかいう規則があってですね、「何故そうなんですか?」と聞かれてもちょっと説明に困るわけですね。けれども規則ですから、それを守らすためにはどうしたら良いかとなると、これについては体罰あるいは暴力ですね。そういうことをするとか、あるいは退学処分を行う。まあ中学でちょっと勉強に関心のある子については「内申書が悪くなるよ。」という強制でやっておったわけですね。管理教育というのはそういう手段がないと実行できないわけでして、僚子さんが亡くなった校門をガチャンと閉めるというようなことも、やはり管理教育だったからこそわかるわけです。
 管理教育をやっている先生方の話を聞くと、「私は生徒が可愛いからやっとるんだ。」と、こう言うんですね。PTAの中の一部の人ーかなり多いかな?ー「子どもが甘えないようにビシビシやって下さい。」と言うような人もいますし、「愛の鞭」が大事なんだという人も結構います。ただ現実に先生にボコボコにぶん殴られて鼓膜が破れたりですね、大怪我をしたら許してくれる親はいないわけですけれども、「愛の鞭」という言葉は随分安易に使われているわけです。非常に言葉は美しいんですけれども、実際問題自分で「愛の鞭」というのをやってみようとすると案外難しいですよね。
 実は私も失敗した例がですね、長男が小学校1年生くらいの時にお金の持ち出しがなかなか止まなくてですね、お金を盗んで何か買ってきたりしてるんですね。これをいろいろな言葉で注意してもなかなか直らない。かみさんと相談してですね、小学校3年生の時にお尻にお灸をしちゃったんですね。子どもながら恥ずかしいと思うのか、治りかけると触るらしくてですね、瘡蓋の痕になっちゃって、小学校3年生くらいの時に私に手紙をくれました。何て書いてあるのか見てみたらですね、「お父さん、またやってしまいました。もう僕の手を切って下さい。」って書いてあったんですね。ちょっと僕はそれを見てですね、「えーっ」と思ってですね。「愛の鞭」だと思っていたけれども、子どもをここまで追い詰めてしまったんだと思って、それを見て泣きましたね。それでかみさんと二人で子どもを呼んでですね、「悪かった。お父さんとお母さんは間違ってた。お前をもう叩いたりは絶対しないよ。」と。「どうしてもお金が使いたかったら500円玉をここに毎日置いておく。いつでも使っていいよ。使わずに済めばそれはそれでいいんだけど。使ってもいいように毎日500円置いとくよ。」と。数回使ったんですけど、使わなくなっちゃったんですね。ひとりでに盗みも無くなってしまった。そういうことを考えると「愛の鞭」って難しいなと思うんですね。実はおかしなことが娘にあったことがありまして、酷いことがあってお尻をパチッと叩いてですね、「本当にやったんか?残ったお金どこにある。」と聞いたら「庭に埋めてある。」と言って泥だらけの10円玉が出てきたので、お尻を1回叩いたことがあって、その後盗みが無くなったと思ったら、何のことはない。最近白状したところによりますとね、親の金は取らなかったけれど兄ちゃんの財布から取ったってね。「愛の鞭」というのは本当に役に立つのかと、私は疑問に思っております。
 弁護士会にはいろんな人権擁護委員会で事件の申し立てが来るんですが、ほとんどの場合子どもが可愛くて殴るなんていう先生なんていないんですね。実際は自分がカッとなってボコボコにやっておいて、後で「実は愛の鞭だった。」なんて言ってるだけなんです。間違った根性論ですかね、ビシビシやれば子どもが強くなって頑張れるんだという。まあ「愛の鞭」と共通するものがありますが、実際はどうも後からくっつけた理屈のような気がしてならない。先月の6月30日に、中学生がラグビーの練習中に脱水症状でぶっ倒れているのにですね、先生は「お前そんな演技をしても通用せんぞ。」と言って放ったらかしてですね、亡くなってしまった。ーこういう事件の判決があって、学校側の責任を認めたんですが、なかなか「愛の鞭」とか根性論というものはですねー何か聞いた時は綺麗な気がするんですけれども、実際はどうも後から考えた理屈のような気がしてしょうがないんです。「誰しも子どもは可愛いんだ。先生も子どもたちのことを思ってやるんだ。」ってことを言ってましたね。僕らでもよく親に怒られた時には、「あんたが憎いんじゃなくて、あんたの為を思ってやるんだよ。」なんてよく親に注意されたものですけれども、誰しも子どもを愛するが為にいろんなことをするというわけなんですよね。
 実際「子どもを愛するということはどういうことなのか。」とハッと言われたらですね、非常に難しいですよね。例えば、ある日家の前から歩いて出ようとしたら黄色いインコがチョコチョコと歩いているんです。「あ、こんなところにインコがいて珍しいな。」と思っていたら、後ろから「何とかちゃん。」と言ってインコのことを呼んでいるんです。どうも飼い主らしいんですが、インコが手乗りで羽を切られているものだから飛べなくて、その飼い主さんにチョンチョンと着いて行くんですけれども、非常に微笑ましいというか飼い主が可愛がっているように見えますけれども、インコは普通飛べなきゃいけないのに羽を切られちゃっているわけで、インコからしたら非常に迷惑な話だと思うんですね。二男が1歳か2歳の時に、僕がご飯を食べさせていたんですね。そしたら「自分でっ!」って言うんですよね。それで「ハイ」ってスプーンを渡したらね、自分で食べるんだけど上手く食べられなくて全部下に落っこっちゃうんですね。ケロヨンのよだれ掛けみたいなものを胸のところにやっているから、そこにみんな入っちゃうわけですよね。でも、汚くて汚くて見ちゃいられないものだから仕方なくちょっと横を向いていたらですね、「見ててー。」と言うわけですよね。「自分一人でも食べられるでしょ!見ててー。」と言うわけですよね。「愛するということはそういうことかな」とハタと思うわけですよね。「自分でっ!」っていう子どもの欲求ー先ほどの田辺さんのお話にもあったけれども、自分でやっていく、一個人として独立してやっていくという欲求と、でも親に見ていて欲しい見守って欲しい保護して欲しいという2つの欲求があるわけですよね。「子どもの欲求を実現してやることが子どもを愛することなのかな。」と、私なりに得心がいったわけで。大体暴走族とかね、それから最近はスケボーと言うんですかね、人混みの中でやるんですが、人のいない所でやればいいと思うんだけれども、大体人混みの所でワーワーやっていて迷惑なんですがーあれは見て欲しいわけですよね。見てて貰えなかった人が今頃あんなことをやっているんですが。
 私も職業柄、例の神戸事件とか昨年の末に姫路でタクシー運転手が殺された強盗殺人事件ーこんな例をやっておりまして、こんな凶悪な少年非行の事件につきまして世の中の人はみんな大体憤激するわけですよね。「けしからん!」と。「親の顔が見たいわ!」とかね。「そんなとんでもない子は一生監獄に入れとくしかないんじゃないか!」とかね。そういう論調が強くなります。「子どもだからって甘やかしているからね、少年法があるからって甘えてるんじゃないか。」とかね。そういう考え方が強くなりました。神戸事件以降そういう考え方が強くなって、とうとうそれまでは16歳以上にならなければ刑務所に行かなくてもいいということだったんですが、14歳、15歳の子どもでも刑罰にできるというーこういう法律を作って改正してしまった。まあ私にとっては改悪ですがー変えてしまった。
 それまでも16歳から19歳の少年は刑務所に送ることができたわけですが、実際にその少年刑務所に行ってみたらですね、少年なんか全然いないわけですよね、その当時でも。全国でほんの数人なんです。大体その数人といっても18歳から19歳ぐらいでね、16歳か17歳で刑務所なんか行っているって全然無かったんです。それなのに14歳15歳の子どもを今さら刑務所に入れようとすることなんて全く馬鹿げているんですが、そういう法律が通ってしまいました。それはやっぱりそういう子どもたちに対する理解が非常に不十分だと思うんですね。「そういう凶悪な事件を起こした子どもは、みんな甘やかされてそういう事件を起こしたんだ。」と。実は私から見るとそうではない。神戸事件の家なんかは、お母さんは「私はスパルタ教育で育てました。」と言うんですね。お父さんは大変温厚そうな人なんですけど、お母さんは自分で胸を張って言っていました。「うちはスパルタ教育でやりました。」小さい時から引っ叩いていたらしいんですね。お父さんは自分では子どもを引っ叩いた覚えはないと言うんですけれども、本人はお父さんにも引っ叩かれたと言うんですね。彼は非常に繊細な子どもでですね、例えば1秒間パッと見たら、大体全部情景がパッとインプットされるんです。例えば本の1ページをパッと1秒見たらパッと頭に入っちゃう。特殊な能力のある繊細な子なんですけれども。だから全く親に心を閉ざしちゃったんですね。少年にとって唯一のあったかい思い出というのは、祖母におんぶされた記憶だけなんですね。お婆ちゃんにおんぶされた時の記憶が唯一の暖かい記憶だった。普通の人だったらみんな「両親にこんなことしてもらったな、あんなことしてもらったな。」という楽しい思い出がいっぱいありますよね。この少年にとってはお婆ちゃんにおんぶされた記憶だけが唯一のあったかい記憶だった。けれどもお婆ちゃんは少年が幼稚園の時に亡くなっちゃっているわけです。小学校に上がる前でしたかね、現在の住居に引っ越して来るんですけど元の家に帰りたくて、「元の家が見える。」と泣き出してですね。元の家が見える幻覚が出ちゃうんですね。それほど元の家が恋しかった。精神科医は「お母さんがちょっと厳しくし過ぎているから、もうちょっとゆったりさせてあげなさい。」というアドバイスがあったようですね。そのお母さんが自分の子をどう思っていたかというと、「よく泣くグズな子」というんですね。親がスパルタ教育でやっていたのを従っていたようなんです。僕らにも非常に言葉遣いも丁寧でね、敬語を使って喋ることができる。体重は43キロぐらいしかなくてですね、身長も私ぐらいしかなくて今の中学生から見ると小ちゃいんですね。だからお母さんが怖かったんですね。それで言うことを聞いていたけど全く心を閉ざしていた。学校の成績はほとんどオール1ですよね。あれだけの能力があって、あれだけの漢字が分かっていても国語も1なんですよね。学校では全く評価されていない。運動神経も大して発達していないからスポーツなんかでも評価されていない。そういう子どもだったんですね。だから自分はもう生きとってもしようがない。「透明な存在」というのは自分の実体がないということですけれども、実感が湧かない存在なんですね。その子にとってはナメクジも猫も人も皆一緒だというわけですね。「ナメクジを殺していいのに何故人を殺してはいけないのか?」と言ってるんですね。だから自分というのは生きていてもどうでもいいという気持ちがあって、捕まったら自分は死刑になると思ったわけですよね、少年法なんか知りませんから。だから「少年院には行きたくないから自分を死刑にしてくれ。」と、こんなふうに言っているんですね。こんな子に刑罰を与えても、自分を死刑にしてくれと言うとるわけですから何もいいことないわけです。
 姫路の事件の方はですね、大変な虐待を受けている。小学校1年の時に親が離婚してお父さんに育てられたんですが、お父さんから非常に虐待を受けていた。殴る蹴るなんて普通のことで、3階から逆さに吊るされるとかね。それから真冬に水風呂につけて水道の水をジャージャーぶっ掛ける。それからスプレーに火を付けて顔の方にバッとやるとかですね。「一番怖かったのは何か?」と聞いたら、「回っている洗濯機に頭から突っ込まれた。」とね。そういう虐待をされて育ってきた。当然お母さんが恋しいわけですよね。だから小学校低学年の頃に2回も母親を訪ねて自転車に乗って母親の家まで行った。最初は高速道路から入ったからすぐ見つかって捕まって戻される。じゃあ今度は真夜中にですね、山を何時間も自転車に乗って行ってね、保護される。こんなことがあった。それで16歳になって母親が一緒に同居してくれることになった。お父さんは離婚して仲が悪いわけだからお父さんは反対します。お父さんと喧嘩別れみたいにしてお母さんの所に行きました。お母さんが仕事を紹介してくれるというはずだったのに紹介してくれなかったので、気に入った仕事が無くて暫くぶらぶらしていた。そしたらお母さんが置き手紙をして「あんたはもうダメです。お父さんの所に帰りなさい。」こういう手紙ですよね。それを見て本人はどう思ったか。お父さんと喧嘩して出て来たのにですね、「あんたはもうダメだからお父さんの所へ帰れ。」です。もう帰るところはないですよ。それでもう本人は死のうと思って、「長い間お世話になりました。本当はお母さんもお父さんも嫌いじゃなかったよ。」という手紙を置いて家を出ました。でも次の日ちょっと里心がついて母親に電話を入れたんです。母親はどう言ったかというと、普通なら「あんたどうしてんの?」って心配しますよね。母親はこう言ってるんです。「どうせ家を出たんだから、もっと遠い所に行け。」って言ってるんですよ。それで三日三晩シンナーを吸い続けて強盗をしてしまった。その理由が全く理由としてならないんですけれども、「一緒にいる女の子を野宿させたくない。」と。唯それだけなんですけど、まあまともな判断ではないですよね。一緒にいた女の子なんていうのは実際何もしてないんですよね。「そんなことは嫌だ。」って反対してですね、いざ殺す段になったらタクシーの後ろでですね「キャー!止めて!」って言って目と耳を塞いで蹲っとっただけなんです。それが新聞とか週刊誌を見ると何か極悪非道の女の子というふうに出てますけれど、全く普通の女の子ですね。何故逃げなかったかと言うと、その子が自殺すると思ったんですね。「自分が行ったら、その少年が自殺すると思ったから逃げられなかった。」とこう言うとるわけですね。現に検察官がですね、少年の地方裁判所の論告求刑の時に「普通の女子高生を悪の道に引き摺り込んだ悪人」だと言ってるんですね。その少年のことを。そういう事件を見ると、子どもたちに罰を与えたから犯罪が減るのかと言うとそんなことはありえんわけで、十分な愛情を与えて貰えなかった子どもたちに愛情を与えずに罰を与えるという間違いっていうのは、その間違った規則というのを体罰とか処分で脅かして子どもたちに言うことを聞かせよう、力尽くで言うことを聞かせようという、所謂管理教育の問題と共通した面があるように思われます。そんなやり方をしとっては、本当に非行は無くなりっこないんです。実は今日、新聞で報道されてますね。14歳と16歳の少年が友達を殺して埋めるという、そういうことが出ている。そんな子の刑罰を重くしたからといってですね、愛情を与えられなくて犯罪を犯している子どもたちの犯罪を止めるということには全くならないですね。
 しかし、子どもというのは凄く成長する力を持っていると思うんですね。例の神戸事件のA君でもですね、私2回ほど少年院に面会に行きました。平成10年の4月に行った時はですね、ほとんど表情が無くて全く無表情なんですね。何を言っても「いや、別に。」、何を言っても「はあ。」といったもんですね。話をすることも無くなっちゃって、「じゃあ僕は帰るよ。」って言ってですね帰ろうとすると、彼がパッといきなり立ち上がったんですよ。二人でソファーに座っていていきなり彼がパァーッと立ち上がったんですよ。それで僕が呆気に取られて見てたら、直立不動で気を付けをしてですね、深々と頭を下げて「鑑別書や警察署にいる時に何回も面会に来てくれて、漫画の本なんか差し入れて頂いてどうもありがとうございました。」ってお礼を言ったんですね。それが全然嬉しそうな顔じゃないんですよ、全くもう能面みたいな顔で言ったから。でも吃驚して僕は一瞬キョトンとしてですね、少年が帰ってから職員に言ったんです。「あんたら、僕が来たらお礼を言うように言ったんとちゃうんか?」と言ったら、「いや、そんなことはないです。まだそんな教育の段階では無いから、それは本人の意思で言ったと思います。」と言ったんですね。確かに表情は全く変わらないし、本心か最初はわからなかったけれども、今まで三十何回面会に行って一度も「ありがとう」と言ったこともなければですね、嬉しそうに「どうも。」って言ってくれたこともないわけで、でもやっぱりどこか心が通じてくれていたのかなと思って非常に嬉しくなってですね。翌年の11年の11月ぐらいに2回目の面会に行った時はですね、驚いたことに全然表情が変わってですね、もう血色が良くなってね、笑い顔が出るんですね。聞くところによるとあれほど嫌っていた両親とも会って話をしている、そういうことを聞いて「ああ、子どもっちゅうのは凄いもんだな。」と大変勇気付けられた気持ちがあります。いろんな子どもを見ててですね、「子どもというのは良い環境が与えられた時にどんどん良くなって能力を発揮するな。」って思うんです。
 大学生で強盗傷害という罪で捕まった子がいまして、裁判官は「こんなのは刑務所や!」と、19歳なのでね、「こんなのは刑務所や。」ということで地裁に送られちゃったんです。私は頭にきて大弁護団を組んでですね、とうとうそれを家裁に送り戻させて保護観察ということで少年も刑務所に行かずに済んだんですが、暫くは私の事務所で働かしてその後高齢者の特養施設で高齢者の大小便の始末までして「本当に男らしいとはどういうことか」とか「責任を持って生きるとはどういうことか」などを体験させて、それで随分成長してくれて、大学は退学になりましたけれども、また受験して福祉系の大学を卒業して、それで福祉関係の仕事に今就いているんですね。そういう子どもの例とか、3,4年前に県立高校の生徒が先生を殴っちゃったという事件があってね、先生が怒って「当然お前は退学だ。」というところを平謝りに謝って、一方では「もしこんなんで退学させたら、裁判してとことんやるからね。」と半分脅かしてですね、とうとう退学だけは堪えて貰った子がいたんですよ。まあ停学になったわけで、停学の期間中あんまり遊ばしとったらいかんので、私が行って勉強を教えることになったんですね。ところが英語や国語ぐらいは何とか教えられるんだけどね、もう漢文なんて中学からやったこと無くてですね、一二三とか上中下とかどっちから先にやるかわかんなくて「うーんどうするんだっけ。」とか思って、参考書とか買って来てですね、2人で一生懸命やるんですね。それで数学なんてもっとわからなくてですね、「ロッグって何だっけなー。」というふうな感じでですね、教科書読んでも1時間経っても3ページしかできないんですね。そんなことやってましたらお母さんが言うんですね。「私は先生に申し訳ない。」と。「何でですか?」「あの子は先生が来た時しか勉強しないんです。」って言うんです。「いやそうですか。」って。それで2か月ほどの停学期間が解けて学校に行ったらですね、今度は校長先生に言われた。「先生、あの子は授業態度が悪くて仕様が無いんだ。何とかして下さい。」ということですよ。一応退学を思い止まったんだからね、まあこちらとしては弱みがありますから「すみません。すみません。」と謝ってですね、帰って来たんだけど。ところがですね、その時の期末試験がですね、中間考査の成績と比べたらね、平均点で20点上がっちゃったんですよ。2か月休んでいたんですからね、学校行ってないのに成績が上がっちゃったんですよ。「どうしたんだ?」って聞いたら、ここ1週間ぐらい寝ずにやっとるんですよ。凄いもんだなーって。まぐれかと思ったら、その次の1月の実力考査でですね、確か英語と数学が10番以内に入っちゃったんですね、全校で。それでとうとう東京のー名前は言いませんけど早稲田慶應に次ぐ有名大学に2つとも合格しましてですね、今、大学の今度3年生になります。元気でやってますね。そういうのを見るとですね、もしその時に退学になっていたらその子はどうなっていたかわからない。本当に子どもの成長する力を見ずにですね、やったことだけを見てもですね、それはやっぱり解決は出て来ないと思うんですね。
 私はよく言われるんですが、「忙しいのによくまあいろんなことを先生してますね。いつそんな少年と会うんですか?」と。実は私は保護司もやってまして、保護観察の少年とかですね、環境調整案件というんで調査に行ったりするんですが、夜9時10時に帰って来たら自転車に乗って非行少年と言われる家に行くんですよね。非行少年って夜中中遊んでいますから9時10時っていうのはまだ宵の口ですからね。どっちゅうことないですよね。それで「おい元気か。」とか言って一緒にボウリング行ったりするとかするわけですが。みんな聞くんですよね。「そんなことやって疲れませんか?」って。「怖くないですか?」って。それが結構楽しいんですね。
 学校の先生もそうだと思うし親もそうだと思うんだけど、自分が全く駄目だと思っている人間っていうのはね、人のことを本当に能力のあるものとは見られないんですよ。謙遜では言いますよ。「いいや。私はこんな人間でーす。」なんて言うんだけど、それはまあ謙遜で言うのは構わんけども、本当に自分が駄目だと思ってしまったら子どもの成長なんて見ることはできないんですね。また、その子どもがですね、何か自信を持ってやっていくためにはですね、親がそういう気持ちを持っていないといかんですね。モデルとして成り立ちませんから。やっぱり自分もなかなかのもんだわいというのを持って頂きたいんですね。ところが今の親っていうのは全然子どもに対しての魅力あるものじゃないらしくて、大人自体が全然子どもに魅力がないらしいんですよ。大人になりたくない子どもたちっていっぱいおるわけで。大体子どもたちが遊んでいるのを見るとね、お父さんごっことかお母さんとかやるんだけどね、大概みんな赤ちゃん役が好きなんですね。赤ちゃんになるのが好きみたいでね。「おばさん」なんていうのは今や差別用語になっているわけですがー僕らの子どものころは「歌のおばさん」とかいうのもあったしですね、「おじさん」っていうのは「月光仮面のおじさん」とかですね「鞍馬天狗のおじさん」とかかなり地位が高かったんですが、今や「おじさん」「おばさん」というのは全く地位が低くなってしまった。というのは何故かっていうと、やはり大人が子どもにとって魅力が無いということだと思うんですね。私たちがやっぱり生き甲斐を持って積極的に暮らして人生を楽しんでいるという姿勢を持って頂かないと、子ども自身もですね、「自己評価を高めなさい。自己評価を高めろ。」ってお説教したところで高まるわけじゃなくて、本当に自分が親に愛されていて、「親も楽しく生きてるな」っていうことを感じて初めて子どもの自己評価は高まると思うんですね。
 どうも最近きな臭い話も多くなってですね、イラクがどうのという話もあって、日本の丸刈りの歴史というのをちょっと調べたことがあるんですが、どうも軍国主義が強化されると丸刈りの強制とかが強まるようで、学校の管理教育というものもどうもそういうきな臭い動きと連動しているように思われて仕方がないわけです。子どもの人権とか考えた場合、戦争とかが最大の人権侵害である。子どもが死ぬということもありますし、健康が害される、教育の機会が奪われる、親も奪われるということで何とかこの戦争を食い止めなきゃいかんのですが、そういうこととやはりどっか管理教育とは繋がっているような気がしてならないので、またこの教育問題についても話をしていきたいと思っています。ちょっと時間が合わなくなって不十分に端折りましたけれども、一応この辺で完とさせて頂きます。どうもありがとうございました。


親をせめるな: わが子の非行に悩む親たち、親を応援する人たちへのエール親をせめるな: わが子の非行に悩む親たち、親を応援する人たちへのエール

野口善國(著) / 教育史料出版会 / 2009年6月1日


歌を忘れたカナリヤたち―子どもは必ず立ち直る歌を忘れたカナリヤたち―子どもは必ず立ち直る

野口善國(著) / 共同通信社 / 2005年12月25日
<内容>
少年法を改正し、厳罰化を進める動きが出る中、神戸連続児童殺傷事件で少年Aの弁護を担当した弁護士が、少年法再改正の動きに疑問を呈す。切り捨て社会へ警鐘を鳴らし、愛とゆとりのある社会と家庭の再建を訴える。


それでも少年を罰しますかそれでも少年を罰しますか

野口善國(著) / 共同通信社 / 1998年12月1日
<内容>
神戸連続児童殺傷事件の弁護団長が初めて明かす「少年A」の実像。少年法の厳罰化では非行はなくならない。


どうなる丸刈•校則 (ヒューマンブックレット9)どうなる丸刈•校則 (ヒューマンブックレット9)

野口善國(著) / 兵庫人権問題研究所 / 1991年1月1日


子どもが育つ家庭づくり: 弁護士とカウンセラー夫婦の子育て論 子どもが育つ家庭づくり: 弁護士とカウンセラー夫婦の子育て論

野口善國(著), 野口喜美子(著) / 教育史料出版会 / 1989年1月1日
<内容>
非行•いじめ•登校拒否…。現代の子育てには心配がいっぱい。子どもを健やかに育むために、少年問題の専門家夫婦がそれぞの立場から、豊富な事例にわが子の子育てのエピソードも交えて、子どもの自立の芽を育む家庭づくりを具体的にアドバイス。


3訂版 個別労働紛争あっせん代理実務マニュアル3訂版 個別労働紛争あっせん代理実務マニュアル

前田欣也(著), 野口善國(監修) / 日本法令;3訂版 / 2021年4月18日
<内容>
あっせん代理、補佐人業務に携わる専門家と紛争解決手続代理業務試験受験者が押さえておきたい申立書•答弁書の書き方、民事訴訟法の知識、必須判例をやさしく解説。
2016年5月の改訂版発行以降の新たな事例や、同一労働同一賃金、セクシュアル•ハラスメントにかかわる新たな判決などを解説に加えた3訂版。



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