発達障害

発達障害について考える (2)

弁護士 峯本耕治

 ようやく秋らしくなってきましたね。今回は前回に引き続いて発達障害について、もう少し考えてみたいと思います。
 前回紹介しました北大の田中康雄先生に来ていただいた6月のシンポのテーマは、「発達障害 医学モデルからの脱出~育ちあう関係性を考えて」でした。発達障害に対する医学診断の意義は認めつつも、「医学診断することだけ」では、更に言えば、「発達障害を、その子どもが抱える医学的な問題であり、それを治療する」というスタンスでは、何も変わらないという点が出発点で、専門の児童精神科医のお話だけに大変迫力のあるものでした。
 この「医学診断だけでは何も変わらない」という点は、私自身も、学校現場において発達障害を抱えた子どものケースに関わる中で、強く感じていることです。特別支援教育がスタートする中で、教職員の間でも「発達障害」という言葉自体は浸透しつつあります。それ自体は肯定的に評価すべきことですが、他方で、安易に医学診断を取り、それで事足れりとする傾向が強まってきているように感じます。これでは、医学診断を取ることが、その子どもの特性への理解や関係性の改善、環境の改善につながらず、一歩間違えれば、子どもを特異視することだけで終わってしまうことになってしまいます。
 田中先生のお話にもありましたが、発達障害を抱えた子どもが抱える問題やしんどさは、子ども自身にあるのではなく、子どもを取り巻く環境や周囲の人との関係性から生じてくるものです。たとえば、友達が冗談でいった「おまえアホか」という言葉を真に受けて、本当にバカにされたと思い、傷ついてしまう。場の雰囲気を全く読めずに自分の関心事を話しつづけたり、相手の容貌や性格的な弱点を感じたままに指摘してしまい、気まずい雰囲気になつたり、変なヤツと思われてしまう。些細なことへのこだわりで、周りが見えにくくなり、クラスの中で浮いてしまう。試験の時にも本来の学力はあるのに、特定の問題へのこだわりが強く時間が足りなくなって点数がとれない。このような特性•個性を持った子どものしんどさは、それ自体にあるというよりも、その結果として、友人関係や教師との関係の中で居場所を失いやすくなったり、自尊心や人への信頼感を低下させてしまい、対人関係が不安定になってしまう等のリスクが、普通よりも高いという点にあります。
 中高生くらいになると、たとえば、非常に切れやすい子どもに手を焼いた先生が、その子どもを医師に見せたところ、「特定不能型広汎性発達障害」等の診断を受けてくることがありますが、上記のような対人関係での傷つきや失敗を重ねる中で、自尊心や人への信頼感が大きく低下した結果として、些細な刺激に対しても反応しやすくなり、切れやすさを生んでしまうことが少なくありません。また、教師や友人関係での居場所を失う中で、ゲームやネットの世界に逃げ込み、こだわりの強さから、その世界により強くはまってしまうことによって、たとえば、性や暴力に関しての強い認知の歪みが生じてしまう。
 少し考えていただいたら判るように、このような悪循環は、発達障害を抱えた子どもに限られたことではありません。人間関係の中で居場所を失い、自尊心や信頼感が低下する中で、子どもたちが、様々な問題行動や心配な症状を示すことは、ごく普通のことです。ただ、発達障害を抱えた子どもたちは、認知が歪みやすかったり、周囲の状況が見えにくく、こだわりが強かったりする中で、ちょっとした理解や配慮がなければ、普通よりも居場所を失いやすいというだけのことです。まさに、田中先生が言われるように、誰の脳にも個性があって、発達障害も、その個性の延長線上で捉えられるということにつながってくると思います。
 ですから、発達障害を抱えた子どもへの対応において大切なことは、単純に言えば、①周囲の者が子どもの個性•特性を理解すること、同時に、それをきちんと発達上の課題として理解すること、②その子ども自身にも、自分自身の個性•特性であり、時には、それが弱点となること等の客観的な理解を促すこと、③それによって、子どもが置かれている環境の改善や人間関係の修復を図り、子どもの居場所を確保し、また、自尊心や人への信頼感の低下を防ぐこと(それらをより高めること)等に尽きるといっても過言ではないと思います。
 医学診断が、それまで「厄介な子ども」「難しい子ども」と感じていた子どもに対する教職員の見方を変え、その個性•特性に対する理解や環境の改善につながるのであれば大きな意味があります。また、それまで、自分の子どものことを理解できず、子育てに苦しみ続けてきた保護者にとっても、子どもの理解とエンパワーにつながるのであれば、本当に大きな意味があります。
 しかし、それが単に「発達障害である」というレッテル貼りに終わるのであれば、結局、特別視することを強めることになるだけで、より子どもたちの居場所を失わせることになり、全くの逆効果になってしまいます。
 現在の状況は、発達障害のきちんとした見たてや対応方法についてのコンサルティングができる児童精神科医が決定的に不足していることもあって、かなり心配な状況にあるような気がしますので、色々な機会に田中先生のお話をきちんと伝えていきたいと思っています。
 それから、もう一つ、発達障害を考えるにあたっては、「児童虐待等の愛着障害環境から生じる発達障害的な症状との見極め」の問題がありますが余りに長くなりすぎますので、別の機会にしたいと思います。

「発達障害」だけで子どもを見ないで その子の「不可解」を理解する (SB新書)「発達障害」だけで子どもを見ないで その子の「不可解」を理解する (SB新書)

田中康雄(著) / SBクリエイティブ / 2019年12月6日
<内容>
自閉スペクトラム症、ADHD……
診断名よりも大切なこと
診断名はあくまでもその子の一部にしか過ぎません。「自閉スペクトラム症のAくん」「注意欠如•多動症(ADHD)のBちゃん」といった視点よりも、大切なのは、その子の目線にまで達して、気持ちを想像してみること。本書では、「発達障害」と診断される可能性のある子どもたち12のストーリーを例に、その子の気持ちを想像し、困っていることを探り、「仮の理解」を行う過程を解説。わが子の「不可解」な行動に、悩める親や支援者を応援する一冊です。


もしかして私、大人の発達障害かもしれない!?もしかして私、大人の発達障害かもしれない!?

田中康雄(著) / すばる舎 / 2011年2月22日
<内容>
どうしても、「片付けられない」「大事な物をなくしてしまう」「仕事の期限が守れない」「落ち着きがない」「思うようにいかないとパニックになる」「空気が読めないと言われる」……
子どもの頃から「苦手だな」と思うことがあった。それでも、とくに困らずそのまま大人になった人はたくさんいます。
しかし、こうした人の中には、社会に出てから「生きづらさ」が強くなり、悩み苦しむ人もいるのです。
「仕事や人間関係。がんばってるのになぜかうまくいかない」
それは、決して本人の努力不足ではなく、生来的に持っている発達のアンバランスさ、「発達障害」が関係しているのかもしれません。
「発達障害って、なに?」
「もしそうならどうすればいいの?」
本人と周囲の人、どちらの立場の人も、「心配だな」と思ったら、はじめに読んでほしい本です。




子ども虐待と貧困―「忘れられた子ども」のいない社会をめざして子ども虐待と貧困―「忘れられた子ども」のいない社会をめざして

清水克之(著), 佐藤拓代(著), 峯本耕治(著), 村井美紀(著), 山野良一(著), 松本伊智朗(編集) / 明石書店 / 2010年2月5日
<内容>
子ども虐待と貧困との関係を乳幼児期から青年期までの子どものライフステージに沿って明らかにする。執筆者のまなざしは、親の生活困難に向けられ、子どもと家族の社会的援助の必要性を説き、温かい。貴重なデータも多数掲載している。


子ども虐待 介入と支援のはざまで: 「ケアする社会」の構築に向けて子ども虐待 介入と支援のはざまで: 「ケアする社会」の構築に向けて

小林美智子(著), 松本伊智朗(著) / 明石書店 / 2007年12月6日
<内容>
公権力の介入を求めるまで深刻化した子ども虐待。だが介入は虐待防止の切り札といえるのか。2005年の日本子ども虐待防止学会シンポジウムの記録を基に編まれた本書は、日英の経験をふまえ、虐待を防ぐために本当に必要な「ケアする社会」を構想する。


スクールソーシャルワークの可能性: 学校と福祉の協働•大阪からの発信スクールソーシャルワークの可能性: 学校と福祉の協働•大阪からの発信

山野則子(編集), 峯本耕治(編集) / ミネルヴァ書房 / 2007年8月1日
<内容>
はじまったばかりのスクールソーシャルワーカーの活躍を描く。スクールカウンセラーや養護教諭とともに様々な問題に悩む親子に、社会的問題を含めて解決にあたる事例を紹介します。今までにない児童生徒へのアプローチに非常な関心がもたれています。


子どもを虐待から守る制度と介入手法―イギリス児童虐待防止制度から見た日本の課題子どもを虐待から守る制度と介入手法―イギリス児童虐待防止制度から見た日本の課題

峯本耕治(編集) / 明石書店 / 2001年12月12日
<内容>
先進的なシステムをもつイギリスの児童虐待防止制度の詳細と、実際の運用状況を具体的に紹介する。ライン等も示し、問題点にも触れる。



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