学校って何?

元くらしのきもの資料館 公庄れい
山の中の村の小学校、全校生徒数は数十人。私の学年は五人だった。先生は夫婦、女の先生は一•二•三年生。男の先生は四•五•六年と決まっていた。この地に小学校が出来た明治から変わっていない。
家から歩いて二十分程の道を独りで通う私を学校の近くまで迎えに来る少し年上の男の子がいた。何の為に?私を殴る為に。私の頭を二、三回殴る。それで気が済むようだった。私は無論嫌だったがその事を親にも先生にも言わなかった。これが世の中というものだと子供ながらに納得していたようである。幼い私にそう思わせるような当時の世相だった。就学前から始まっていた戦争は第二次世界大戦へと続き、私の小学校時代はすっぽり戦争の中、村からは男の姿が消え、いつ終わるとも知れない非常時とのかけ声に、女達は重労働と不安にあえいでいた。
男の子達は無闇に威張り、女は殴られて当然といった空気が充満していた。音楽の時間に”薫る薫る 若葉が薫る”という歌を習った。授業が終わると、カオルという名の男の子が「俺の名前を呼びすてにしたな」と女の子達の頭を殴ってまわった。
そのうち、戦死の報せがどの集落にも届くようになった。男の先生は六年生の子供達を連れて戦死者の家を一軒一軒弔問にまわった。そんな事が続いたある日職員室で男の先生が四年生の一人の男の子を椅子の脚で押さえつけて折檻しているのを見た。その子は一里程山に入った一軒家から一時間もかけて学校に来る母親だけの家の子だった。いつも在所の男の子達に苛められるので近くの山の中に隠れていたのを連れてこられたらしい。
とに角自分より弱い立場の者を苛めないでは居られない。そんな時代だった。現在と何と似ている事!!
二十五年前のあの災害の時、家の近くの赤塚山高校も避難所になったので私の食事はボランティアをした。風花の散る寒い日が続き、この地にもう再び春は来ないのではと思わされるような日が続いた。校庭には複数の仮設トイレが並んでいた。毎日そのトイレをきれいに掃除する男子生徒がいた。何ヶ月か経って学校が正常化したある日、学校の近くの道路脇に座り込んでいるその生徒を見かけた。どうしたのと声をかけると「遅れたから学校へ入れてくれへん」と彼は淋しそうに笑った。
明治政府が軍隊を創った時、地方出身の兵達の言葉はばらばらで意思疎通が困難だったので小学校を造り標準語教育を始めたのだと聞いたことがある。明治六年徴兵令公布、明治九年小学校令、中学校令公布。
国家の発展に役立つ人間を生産する為の場所が学校だったのか。それで納得、それでやたらと規則を作って、守らないヤツは締め出すんだ。そんな場所に閉じ込められた教師も生徒も誰かを苛めたくなる。今の神戸のマスコミに取り上げられている教育現場での諸問題も起こるべくして起こっているのだろう。悲しい!!
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