石田僚子さん追悼10周年記念文集

からだがふるえたあの日から10年

ー自壊と外圧により解体へと向かう教育工場ー

田中 英雄

 高塚高校の生徒圧殺事件を思い出す度ごとに心が痛む。哀れにも教師の手によって鉄とコンクリートの間に頭をつぶされて亡くなった女生徒の断末魔の苦しみや、「教育」に熱心のあまり想像もせぬ殺人に至ってしまった教師の驚愕、その後の学校関係者の沈静化と根本的解決の一切を無視した事件収拾のためだけの策動。どれ一つとっても心おだやかに想い起こすことなどは出来ない。
 この10年、この事件の背景にあるものを自分なりに考えてきた事を書きあらわしてみた。
 事件当日、あまりの衝撃にからだがふるえた。「教育」が永年その名の下に子どもの「本質」を押し殺して変形させて来たのだが、遂には具体的いのちまでも犠牲にするほどにひどくなっているとは!私事で申し訳ないが、かつて息子の高校の入学式に行ってきた妻が校長の挨拶に腹を立てて言っていた。「高校は義務教育ではありません。勉強する気がなければ来なくてよろしい。なんてよく言えるは!」小学校にしろ、中学校にしろ、子どもたちが充分に遊び、心が開かれ、知に目覚め、教師たちとの出会いを喜び、未知なるものに胸をふくらませて入学してきているなら、そんな突き放すような雰囲気も「檄」として納得も出来るだろう。しかしどうだろう。小学校3年生ぐらいから急激に過重な知識のつめ込みを行い、子ども自身が自己の独自性を発揮することに恐れを感じさせ、無邪気に自己を開放してしまう人間には集団としての「いじめ」の陰湿な冷水を浴びせられることもしばしば。一番上の娘に、後年中学時代の授業の感想を聞いた時、彼女は言下に言い放った。「授業というものに何の期待も持てなかったわ。」と。その高校の校長は、入学して来た若者たちが小学校や中学校時代に経験してきた「いじめ」による心の傷や無味乾燥な授業に対して持っている思いを分かっているであろうか。それとも、入学して来た者たちの学習能力に関するデーターのみが気がかりだったのか?妻が腹をたてるのは恐らく彼女が高校時代に経験した納得出来ない悲しい学校の教育方針と重なるからだろう。彼女がすごした高校は全国でもいち早く能力主義学級編成を採用したところだった。田舎の中学校で共にすごした者たちが学習能力のちがい丈で別々のクラスに分けられていく事のなんとも言えない淋しさと非人間性。その事に悲しみ、からだで反抗し「生きるって何なの?」と問う彼女に「そんな本質的問いは今は邪魔だ大学に入ってから考えたら」とばかりにあしらい、それを無言で認める仲間たち。

 時は流れ、学校はみまがうばかりに工場となり果てた。幼稚園から大学までみごとな生産ラインがしかれた。一人ひとりの人間をインプットからアウトプットまで、コンピューターのデータ処理と同じ発想で処理する。データを入力する場合、変なデータが入らないようチェックするのが肝腎だ。誤ったデータを入れればシステムが誤作動する。幼稚園では基本的生活習慣が出来るかどうか。小学校では認識力のチェックが。出来ない者は「特別」の学級ラインにのせられ「普通」の社会より隔離されていく。高校段階では露骨なフルイ分けが公然と行われる。高塚高校では高校の入口で遅れて来るような者は校舎にインプットさせないという荒行が行われていたが、しかもカウントダウンをとりながらやったというのを(他の教師は黙認していた。)私たち外の人間が怒っても、内の人間には本当に通じるのだろうか、と思う。学校教育がすでに完璧なシステムに成り果てていることを知らないで、怒っているのは我々素人ばかりではないのか。
 プロの教師にとっては、見かけは強烈だったとしても、その方が生徒にとっても良いと判断されていたのかもしれない。30年前は「生きるって何なの?」と問う生徒が邪魔だったけれど、今はシステムに乗らない人間を変形させてでもインプットしようとして、誤って殺してしまった丈の話しではないか?無残という他はない。凶器となった門扉を取り払い、あとを花壇にした行為の白々しさ。以上の問題を我々はずっと問い続けて来た。
 しかし、事件より10年の間に問題は先に進んで来ている。すなわち、システム全体がもう古くなってしまったのだ。工場としての学校はもうほとんど機能しなくなっている。その原因の一つは外的であり、もう一つは内的である。外的とは資本のグローバリズムの問題であり、内的にとは近代主義、都市主義の問題である。

 前者の件についてはすでに多くの人が気づき警告している。即ち、日本の今迄の大量生産方式による物づくりが限界に来てしまった。その結果、環境がダメになってしまった。物の豊かさなどに夢があるとは思えなくなった。欲しいものは個性的なものや新しいライフスタイルである。交通と情報技術がそれを可能にしている。それらが、国境を超えて自由に往来出来るよう資本の圧力が攻め寄せて来ている。国はこれらの外圧に対して国民を守りつつどう内の改革をなしていくかという努力よりも、簡単に白旗を挙げ外資の言いなりになっている面が多く、国民のいらだちを鬱積させている。
 教育改革はこのグローバリズムに対応するため個性化、国際化を強調し始めた。見せかけの平等もかなぐりすて、力のあるものにはどんどん能力をつけさせ、やる気のないものは御自由にという姿勢をとりつつある。即ち勝ち組みと負け組みを自分で自由に選んで下さいというスタンスである。日本の戦後教育が画一化によって維持して来た良質で均質な労働力はグローバリズムの前に敗退し未曾有の首切りの対象となり、その結果「中流」は崩壊しつつある。今や日本人の4%の人が日本の金融資産の60%を所有している。どの雑誌だったか堺屋経済企画庁長官が戦後は平等を強調しすぎた。これからは自由が大切で、「怠惰」を選び貧しくなる「自由」も選択の一つだろ詭弁を弄しているのを見て、いよいよ、ある種の棄民政策が始まったのだと感じた。

 内的な原因というのは都市主義の限界のことである。
 最近17歳の少年事件が続発している。豊川市の少年の場合「人を殺す経験をしようと思ってやりました。」と述べているが取り調べている愛知県警の捜査幹部は「動機の一番深い部分は、彼がいくら言葉を尽くしても見えてこない」と漏らし、接見した弁護士も「不思議な時間だった。」と述懐している。これは神戸の須磨事件を起こした少年に接見した弁護士でも同じだった。要するに通常の犯罪動機と犯罪行為が合理的に結びつく事件ではなということを示している。通常の「意識」ではとらえられない「死」や「いのち」に頭ではなく、からだを使い暴力でもってそれに接近しようとする行為で、からだの頭への反逆としてしか位置づけられるのではないかと思う。
 養老孟司という解剖学者が2年前の中央公論6月号に「都市主義の限界」という論文をのせている。その中で都市化とは意識化であり、計算であり、「ああすれば、こうなる。」であり「一般化、普遍化、透明化である。そこでは人間を構成する重大な要素である『無意識』即ちからだは勘定に入っていない。」都会は人間の意識が作ったものである。当然そこでは自然と自然そのものである子どもが排除される。「教育」はその名の下に子どもの自然性を消し去ることを一生懸命やっているのだからどうしようもない。彼は以下のようにその論文を結んでいる。「ただいま現在、子どもがどうかなっていると騒いでいるが、どうかならないほうがおかしいと、思わないのだろうか。」
 今、国をあげての教育改革が叫ばれているが、グローバリズムは子どもたちの意識化を一段と進める方向に働くことは目に見えている。子どもたちの意識さえも支えている無意識(からだ)を無視する方向に進むならもっと手に負えないことが多発するだろう。
 気がついた者から始めるしかない。決断力と実行力のある者は子どもをつれて田舎に行くのが最良の方法かもしれない。しがらみによって出来ない者は、都会の田舎化を少しづつでも始めるしかない。

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