脱学校原論② 学校の害毒

堀蓮慈
とにかく、生徒の人権を尊重することがすべての教育の基本や、いうんがフリースクールの考えや、とぼくは理解している。自分の人権を尊重されへんかった人間が、なんで他者の人権を尊重する気になるもんかいな。大人が権力でもって子どもを支配したら、その時は楽かもしれんが、後でツケが回ってくる可能性が高い。
前号でちょっと触れた「超学校」の話をすると、アメリカのサドベリーヴァレー•スクールでは生徒が中心になって学校を経営している。財政から教師の人事まで生徒が決定できる、いう意味で、あらゆるフリースクールの中で最も民主主義を徹底した学校や、て言えるやろ。民主主義いうんは、言葉やなしに日々の生活を通して学ぶもんや。今の日本の学校で民主主義を語ったら、生徒に伝わるんは「タテマエと現実は別で、日本では正論は通らんのや」いう絶望と不信だけやろな。日本の学校に適応した人間、つまり学校での秀才は、戦前は軍のトップとして、戦後は高級官僚として、国を引っ張ってきたわけやが、その結果が敗戦であり、今の日本や(このままのコースで行ったらええ、いう人、あるいは戦前的な権威主義教育を主張する人とは議論するファイトがわかん)。子どもに既存秩序への適応を強いることは、未来を奪うことになる。逆に、制度の方を人間に「適応」させるべきやろな。人間に服を合わせるやなしに、服を人間に合わせるんが当たり前やろ。
とにかくそんな具合に、伝統的な学校は、人権より制度の都合が優先で、教育機関やなしに選別機関として機能してる。そやから、学校へ行ったために自分に自信をなくして、自尊感情を失う、いうことが頻繁に起こってるはずや。これが人生最大の損失。そういう風に育った親は、自分の子どもを愛することもできんで、子どもを学校的価値観、つまり「何ができるか」「言うことに従うかどうか」で評価する。「切れる」んも、犯罪を犯すんも、根っこはここにあると思う。ほんまかどうか知らんけど、アフリカの「未開」の村に学校を作ったら、それまで必要のなかった刑務所も作らんならんようになった、いう話がある。急速な「文明化」のためには、強引な集団教育が好都合やったんやろが、もうそんな時代やないやろ。
学校に対する批判は山ほどある。それでもなおかつ学校へ行く最大の理由は、学歴がないとええ仕事につけん、いう思い込みやろが、はたしてほんまか?確かに、公務員とか大企業の社員にはなれんやろけど、エジソンや松下幸之助みたいに大企業の社長にはなれるかもしれん。別にそないに欲張らんでも、自分の好きな仕事をするのに、学歴がいるとは限らんやろ。戦後、サラリーマンが一番安定してる、いうことで、みんなが企業に就職しようとしたから競争が激化したけど、安定した嫌な仕事と、不安定でも好きな仕事とやったら、今の若い子は後者を選ぶんやないかなあ。それは、「甘い」いうんやなしに、社会が成熟した、いうことなんや。ついでに言うとくと、安定を求めすぎると安心が得られん。何かあったらどないしょう、てビクビクしてるんに比べて、その時はその時で何とかなる、て思えた方が安心やろ。
現実的な話として、やる気さえあったら歓迎する、いう職場は中小企業やったら結構あると思うし、なかったら自分で作る手もある。そんなことはでけへん、て思うんは、学校や家庭で、劣等感•無力感を植えつけられたせいに違いない。人間には本来いろんなことができる可能性がある。もし何らかの資格を取る必要があったら、通信教育が手っ取り早いし、大検を受ける手もある。塾で教えていた経験上言うけど、あれは本気でやる気があったら、かなりの確率で通るんや。特定のコースからはずれることを病的に恐れるんさえやめたら、人生はかなり楽になる。
脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン•イリッチ(著), 東洋(翻訳), 小澤周三(翻訳) / 東京創元社 / 1977年10月20日
<内容>
現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書。
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