教育

脱学校原論⑦ 人間には社会権がある

堀蓮慈

 今回でこの「脱学校原論」は終了するんで、今までの話をまとめてみたい。近代の学校は、国家にとって都合のええ国民を作るための道具やったが、現代において学校は、社会権の1つ、つまり公共サーヴィスとして利用したらええもんで、不都合があって利用できひんのやったら、主権者にはクレームをつける権利がある。ただ、民主主義が機能してないために、なんぼ言うても行政の態度が変わらん場合、子どもは自分らで教育するしかない。そう考えていくと、そのためのオールタナティヴであるフリースクールやホームスクーリングのネットワークには、公費の支出があって当たり前なんや。
 公費支出のやり方としては、役人が予算をつけるんやなしに、生徒数によって収入が決まるヴァウチャー制度の方がええと思う。安倍内閣の「新自由主義」的思想に基づく政策は、経済分野では格差拡大に結びつくやろが、教育分野では官僚統制からの自由をもたらす可能性がある。もちろん、学校間の競争が激化したら、今まで以上に受験教育に特化する学校も増えるかも知れんが、それは親がそういう学校を選ぶからやろう。そんな学校を出て、官僚とか大企業とかのエリートコースを歩むんが幸せやと思う人は、そっちへ行ったらええがな。ただ、多くの敗者の上に乗っかって甘い汁を吸う構造がいつまでもつかな。過去の「エリート」は、自分だけたんまり退職金もろて逃げ切ったかもしれんが、そんな生き方を子どもに勧めるような親は、どうかと思うなあ。
 「学校へ行かんかったらまともな職につけん」いう図式は、これだけ非正規雇用が増えると説得力がなくなる。学校へ行ったって正社員になれへんのやから。としたら、会社に入る以外の道を考えた方がええ、いうんは自然な結論やわな。コンピューターに向き合うんが好きやったらネット起業する手があるし、海外に興味があるんやったらワーキングホリデーに行ける国がいくつかある。これはどっちもそないに金はかからんので、意欲さえあったら道は開けるはず。思うに「学校に行けへんのはあかんこっちゃ」いう思い込みにそれほどの差はないもんや。つまり、自由な生き方を選べへん、いうことは、学校信仰からほんまに自由になってない、いうことなんや。
 「今の学校に合わんということは、今の多くの企業に合わん人間なんや」いうことを肯定した上で、ほならどないするか、を考える。起業とかワーホリとかはちょっと、いう人でも、世の中にはいろんな働き口があるから、人間関係をある程度保つ力さえあったら食いぱぐれることはない。学校に比べたら、社会の人間関係の方がはるかに多様やから、どこかに場はある、て言いたい。「渡る世間に鬼はなし」いうんはけっこうほんまやで。
 もしどこにもなかったら?「ホームレスになるしかない」いうんが多くの人にとっての恐怖らしいが、最後は社会に面倒を見てもらう権利がある、て憲法に書いてある。ニートの問題はまた稿を改めて論じたいけど、「働かざる者食うべからず」なんちゅうのは近代の論理であって、それは人間を幸せにせえへん、とだけは言うておきたい。お互いに支え合う、いう前提があってこそ、人は社会に貢献しょう、いう気になるんやからな。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

イヴァン•イリッチ(著), 東洋(翻訳), 小澤周三(翻訳) / 東京創元社 / 1977年10月20日
<内容>
現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書。



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