無かった事にしない

藤田敏則
10年ほど前の夏の朝、とはいっても陽は既に昇り微かな風や木陰がありがたく感じられます。神戸市西部に開かれた新興住宅地のターミナルでもある西神中央駅で電車を降り、県立高塚高校に向かって歩いたことがありました。高校までの道は街路樹の整備された明るい街並みが続いています。電車通学の生徒達が歩みの遅い私の脇を次々と追い越して校門へと進んでいきます。
平成2年7月6日、電車が延着したその日は生徒達が先を争うように学校を目指したと思われます。そこには校門指導と称する締め出しを免れたい心理が働いていたかもしれません。事件が発生した時、石田僚子さんが門扉に挟まれる瞬間を10名に余る生徒がたぶん目撃したのではと思います。その時もし私がそこに居た生徒の中の一人だったとしたら、その時に何を感じ、どう受け止めただろうか。又、その場に居合わせた教師だったとしたら何を考え、どう判断しただろう。現場に生々しく残る血痕を急いで洗い流した学校関係者を責めるだけの行動が果たして自分にとれただろうか。誰しもが想像に余る事態に居合わせてしまったのです。亡くなった石田僚子さんの無念さや、ご両親の悲しみの深さを思うと唯黙するばかりです。
事件後30年を経た今、石田僚子さんの御霊に掛ける言葉があるとしたら「こんな過ちは二度とくり返しません」以外浮かんできません。絶対にあってはならない事件を生じさせた責任は、そうした過ちを生み出す教育の状況を放置してきた大人達全てに課せられています。省みて教育のあり方への疑義を問うことも必要でしょう。唯、その前にあの時、あの場に一旦自分を置いてみることも必要に思えるのです。学校全体の方針に多少の疑問を感じても黙って従えば安住は出来るでしょう。しかしそれが本当に生徒中心のあり方なのか思考を停止せず自ら判断してほしいものです。教育の現場が自由にものを言える場であればこんな悲しい結果には至らなかったと思えるのです。事件後を生きる私達はこの悲劇を「無かった事にしない」と心に刻むべきでしょう。無関心は死者の魂をも悲しませてしまいます。
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