石田僚子さん圧殺事件について

所薫子
1990年7月6日、朝8時30分、当学校へ通学している学生が、教師の閉めた校門の門扉に挟まれて圧死しました。その日すぐから後、多くの報道関係より報道され、しばらくは何処のチャンネルを回してもこの事件ばかりでした。
兵庫県では、「兵庫県立農業高校入試改ざん事件」、「尼崎高校入学拒否事件」、「風の子学園事件」など等、教育に関する事件が次々に起りました。
ちょうど同じ頃、神戸市立中学校では丸刈り強制が自由になった学校とれだけではないことを後十年は無理」と言われる地域差が生じておりました。翌1991年には、全市的に強制が解かれ自由になりました。
【門扉圧殺事件の特異性】
教育を受ける権利をはなはだしく逸したこの事件は、世界の歴史を見てもまずありません。学校へ行こうとして、教師によって閉められた門扉と門柱に挟まれて亡くなったのであれば、これは当然「殺人事件」です。けれど事故として扱われました。またその事件現場で水を流したりして証拠隠滅をしたにも関わらず『校長の裁量範囲内』と裁判でも棄却されました。門扉は、耐用年数30年とされた県民の財産にも関わらず、事件裁判が終了するや否や、その日の内に溶解させられ、それもこれも『校長の教育的配慮の裁量範囲内』で片付けられました。
「遅刻」、このことが生命をも奪わなければならないことなのか、私には未だに理解できません。事件当時マスコミでは「遅刻常習犯」だったとか、「不良少女」だったとかの根も葉もないことを報道しました。遅刻常習の学生は、教師によって殺人的な強さと速さで閉められる門扉のことは知れ渡っていたと聞きます。鞄が挟まれたり、スカートが挟まれたり危険だと職員会でも取り上げられていたと聞きました。
死亡した学生の家族は、子を失う悲しみ、きょうだいを失う悲しみの上に、二重三重の被害を受けました。家族を殺されて失う悲しみをその時から今も尚、ずっと強いられているのです。
その門扉を押したのも、それを許してきたのも私たち一人一人であることに相違ありません。それは何年、何十年たっても変わらない事実で、伝えていかなくてはなりません。
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