教育

脱学校原論④ 子どもの魂を殺すな

堀蓮慈

 家庭にせよ学校にせよ、子どもの生き生きとした、何ものにもとらわれへん魂を、一定の枠内に押し込める働きをするもんや。それは社会に「適応」するためにある程度やむを得んとはいえ、その枠の弊害については敏感になるべきやな。たとえば今の学校が設定してる枠がどんなもんか。たまたま子どもが生まれた地域によって勝手に決められた場所へ、毎朝早うから時間通りに来させる。時間割によって行動を縛る。「気をつけ」の号令で硬直した姿勢を取らせ、「前にならえ」で整列させる。マーチに合わせて行進させる。一日に何時間も机に向かって座らせて、やりたいことをやらせずに、やりたくないことをやらせる。一方的に決められた規則と、行政の都合で割り当てられた大人(たいていは権威的で、しばしば暴力的)の言いつけを守らせる。子どもの興味と関係のない知識を記憶させてテストで評価する。選択の余地のない食事を時間内に残さず食べさせる••••。
 これは一体どういう生活やねん?兵隊か囚人か?こんな状態では、授業以外で主体性を回復させる場がなかったら、子どもの魂は完全に窒息するわ。昔は周囲に地域社会があったし、豊かな自然があったし、何より時間や空間に余裕があったから、ある程度バランスが取れてたんやろう。今や、人工的な環境の中、人工的な刺激ばっかり受けてる子どもらは、生命力が枯渇してる。くたびれたサラリーマンみたいな子どもが増えてる、いうんはしばしば言われることやわな。
 大人は、子どもの命について大きな誤解をしとるんや。適当な指令をインプットしたら望ましい反応をするロボットみたいなもんやと思てるんやないか。あるいは役に立つ家畜か。大きな問題なんは、家庭までが学校的価値観に立って子どもを評価しているこっちゃ。学校は役に立つ人間を作る場やけど、家庭は幸せな人間を育む場であるべきで、「遊び」こそが人生の基礎を作る。子ども時代に好きなだけ遊んで、生きるんは楽しい、いう原体験持てんかったら、その後の長い人生、何を支えに生きていけるんや?
 今の生活ではイヤや、もっと生き生きと生きたい、と無意識にせよ感じた人間は、非日常の冒険に乗り出そうとする。その時、確かな価値観のベースがなかったら、犯罪、ドラッグ(酒を含む)、ギャンブル(マネーゲームを含む)、カルト(ナショナリズムを含む)に走る可能性がある。せめて思春期に、人生の意義を考える機会があったらええんやけど、日本の学校は先進国で唯一、哲学の授業がないからなあ。それは大人自身が自分の頭で物を考える習慣を持ってないせいやろけど。それで中年になってから人生が空しくなったりするんや。
 人生に活力を与えるんは創造性や。社会は、常に枠をはみ出す人間によって活性化されてきたんや。ぼくは坊主やから、そこにスピリチュアリティのベースを付け加えたいんやけど、とにかく、物質的な安定のためだけに精神の自由を押し潰すんは「角を矯めて牛を殺す」ことになる。自分の人生が「ほんまに面白い」と思えん人は、子どもにはその二の舞を踏ませんといて欲しいんや。「わしが我慢したんやからおまえらも我慢せえ」なんてつまらんことを言わずにな。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

イヴァン•イリッチ(著), 東洋(翻訳), 小澤周三(翻訳) / 東京創元社 / 1977年10月20日
<内容>
現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書。



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