
いなだ多惠子
35年前の1990年、この事件が起きた時に私は神戸市垂水区に在住し、大阪の北部にある高校で講師をしていました。当時、第二次ベビーブームの学齢人口が急激に増加し新設校が増えた時期です。教室には定員一杯の40〜43人が在籍していました。一人ひとりに個性があり多少の騒がしさも授業を通して学び舎で得られる貴重な時間を感じていました。しかし、神戸の教育現場で教師が門扉に生徒を挟むという事件が起き、大きな衝撃を受けました。なぜこんなことが起きたのだろうか。東京や神奈川で教師業をしていた友人からも兵庫県の「教育」ってどうなっているの?と尋ねられても私自身が理解に苦しみ、まずはこの事件について門前追悼をしている場に参加させてもらいながら考えたいと思いました。
石田僚子さんの命を奪った門扉の撤去に抗議をして裁判をされた、故森池豊武さんやソガ氏の呼びかけを通して、事件そのものについて考える集会「兵庫の教育」「管理教育」「子どもの自殺」など多岐にわたる問題提起を続けてこられたこと。追悼の場を設けてくださり細くてもずっとつながってきた35年でした。
2011年3月の東日本大震災の日は、勤めていた中高一貫校の期末考査が終えたときでした。私自身は頭の中が東北地域の地震•津波災害や原発事故等で被災された方たちの苦悩を想像するにつけ胸がかきむしられるような状態でした。が、社会人として当たり前の日常の継続が心は簡単にできないまま、学校では普段の授業のように試験を返して、学年末の成績を出さなくてはなりません。この時にテスト返却時の採点ミス(こういうことはよくあり、きちんと誤り訂正します)をした私に対して、ミスをした1•2点の間違いに強く言い掛かりに近い抗議を受けて、『どうしてこの生徒にとっての1•2点がこんなに重要なことなのだろうか』とぼんやり考えました。東北地方沿岸部の同じ年頃の中高生の苦難のことなんか微塵も想像しない(する必要はないのですが)、この時のテストの点数が最も重要なことなのだとわかりました。教育機関でメシのタネを得ている自分が、点数を気にする生徒を育てていることに矛盾を感じました。その後、通勤途中の駅のホームや混んだ電車の中で黙々と目的地に向かう社会人や学生の姿が能面のように見えてきて、これ以上「学校」という空間に身をおき続けることはできないと、モヤモヤした1年をすごして翌年に辞めました。
「学校」が社会へ踏み出すことや生きていくことへの希望を感じていけるような場であってほしい。学校で得られる知識や友人関係の出会いがそれぞれの成長につながり、「生きる」よろこびになると思いたいです。
神戸高塚高校の事件を通してたくさんの方と知り合いました。この事件の記憶をしっかり伝えていく大切さを感じています。未来ある次世代も含めて他者を支配しない、「教育」が地球の住民として友好関係をつくるために、争いごとではなく対話を構築できるような社会づくりへと進むことを願わずにはいられません。
【2025.12 明石市】
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