エッセイ
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年寄りという生き物になりました

公庄 れい

 今年のあの暑い七月、私は断食をしようと突然思い立った。三日間のお茶だけの断食を終え三日間で常食に戻ったが、もう一つすっきりしない。
 私は生まれたときに背中に毛が生えていたそうである。つまり殆ど未熟児の状態だったのだろう。昭和八年、高野山奥の山村では、そんな児は道の辻へ捨てて誰かに拾って貰い、名前も別に付けてその家の子としてしばらく養って貰わないと育たないと考えられており、そうするように随分勧められたそうである。しかし父は迷信だとしてそれに従わなかったらしい。それでかどうか判らないが小学校入学を来年にした私は食べ物をすべて吸って食べていた。当然栄養不良で痩せこけていた。それで父は私を数十キロ離れた医師の居る所へ連れて行き断食をさせて噛む事を覚えさせる事にした。その距離を歩けない私は柳行李に入れられ駕篭のように担がれて行った。医師の近くに宿を取り、三日間の断食、父は噛むという事を私に教えこんだ。今日は家に帰るという日、昼食に鮎の焼いたのが出た。父は「これはアイという魚で家の方の河にはおらんけど旨いから食べてみー」と言ったが、私はあの香りが嫌で食べられなかった。が”噛む”ということは覚えたのである。しかし未発達の私の腸はそのままの状態に止まり、青白く痩せ、学校で一番前にいるのはいつも私だった。その状況を変えたのは戦中戦後の極端な食料不足だった。
 昭和二十年四月、町の女学校の寄宿舎に入った私の食事は家でのそれとは全く違っていた。公的な食料の配給では、お米の替わりに砂糖、米ぬか、大豆かす、動物の飼料用のトウモロコシの輾き割ったもの等と少量の米、食事担当のおばちゃんは何とかそれらで育ち盛りの寄宿生たちの食事を作ろうと必死だった。昭和二十一年六月ころだったらうか丁度エンドウの出来る頃だった。昼食は米ぬかの蒸しパン、数粒のエンドウが入っていた。米ぬかは食べられないのでエンドウの数粒が昼食だった。そんな状態が三年ほど続き、私の腸は本来の姿に戻ったようである。腹痛下痢は止まり、成長期の体は少しずつ丸みを帯びてきたが背が伸びたのは高校を出てからであった。
 そんな経験があったので若い頃から少し調子の悪い時には一日二日の断食で体調のコントロールをしてきた。が、ここ四十年ほどは神戸市相手の裁判や田舎暮らしの忙しさで断食なんかしている暇が無かったのである。そして四十年という歳月が私を老人にしているという当然の事にこの断食は気づかせてくれたのである。
 断食の後、今夏の猛暑のせいもあるのかすっきりしない日が続き、喉が傷み咳、頭痛、発熱、膀胱炎、病院嫌いの私も仕方なしに抗生物質のお世話にならざるを得なくなってしまった。それで約二月、半病人の暮らしを強いられたのであるが、その間自分で驚くようなことがあった。私は謡いを習っているが、午後からお稽古に朝は行けると思っていた昼前、ああ、やっぱり駄目だ、と急いで先生のケイタイの留守電に欠席の電話を入れた。数分後以前習っていた先生から電話が入った。「先生を間違っているんじゃないですか」と。この先生に五年間、今の先生に変わって一年、熱に浮かされている私の頭はお謡いの先生イコール五年間に教えていただいた先生という事になっていたのだろう。急いで今の先生にお電話したが人間の頭の中って不思議。
 それ以来、歳を取るということはこういうことかと思わされる事に直面し続けている。そしてそれらに困惑しながら自らに訪れて来た老人という現象を面白いと思っている。もし私が五十歳で死んでいたら経験できなかったことである。面白いは面白い。が、しかし顔の皺は何とかならないものかね・・・・・・。

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