石田僚子さん追悼30周年記念文集
あれから30年、に寄せて。

おーまきちまき
当時、教育大(障害児教育養成課程)を卒業したものの、もう先生をめざす気持ちはとうになくなっていて、とりあえず小さな印刷会社の事務員さんとしてはたらいていました。
養護学校かろう学校の教員に、とおもって学校にいったのに、「養護学校はあかんねん」という「障害者」にであってしまって、授業をさぼっては介護に入っていた学生時代。ギリギリ卒業したけど、あてもなく、ほんまにとりあえずの就職でした。いまおもえば、時代がとてもバブリーやったから、就職口があった。
養護学校あかん、ていうてたのは「青い芝の会」という脳性まひ者の集団で、親による障害者殺しに対し、我々は殺されなあかん存在か?という問いを社会に発するところからスタートしてたと思う。
重度障害者は家族がみるか施設か、というなかで、地域で生きるんや、と、なんの施策もないのに介護者をつかまえて綱渡りの生活をしてる姿は鮮烈で、ずいぶんおこられながら影響をうけた。
養護学校あかん、そらそうや……と思ううち、教育、じたいにはてな、がめばえて行ったのは必然やったとあとから思う。
いま、「ひきこもり」とよばれる経験をしてはるひとたち(不登校経験者も多いです)がつどう居場所で世話人としてはたらかせてもらっています。
行政のくくりとしては地域活動支援センターの指導員、ということになっていて、もちろんまったく「指導」なんてしないのですが、お給料はもらっていて、ときどきもぞもぞしながらおるのでした。
なんで門扉によって死ななあかんかったんか……
この問いはじぶんにもまだまだ続いていくのやと思う。







