エッセイ

ぬるでの木

公庄れい

 田舎でいられる時には出来るだけ散歩をするようにしている。国道370号線を40分ほど歩くのだが朝早い時間には車一台に会うかどうかというのんびりした国道である。夏の終わりから秋の始めにかけて雨が極端に少なく畑の作物は勿論のこと山の木々も辛そうである。
 十数年前までは夏は必ず夕立が来た。朝からのむし暑さも響きわたる雷と共に猛然と降る雨に洗い流されて人も植物も生き返ったものだった。その夕立が来なくなったのはどうしてだろう。地球温暖化だ、環境破壊だと軽々しく言いたくはないがなんだか変なのである。
 散歩道のかたわらのぬるでの木はずいぶん弱っているようで枝すべてに花を咲かせている。ご存知だと思うが植物は弱ると花や実をたくさん付ける。次世代に命をつなぐ為の自然のはからいなのであろう。私が子供のころ節分に枚のような物で柿の木を叩いて「柿の実なれなれ、ならんと伐うてしまうぞ」といういわゆる”成り木ぜめ”をしていたが、木を弱らせると実をたくさんつけるという事と関係があるのかも知れない。
 枝いっぱいに咲かせた花に一番水の欲しい時に雨が降らないので白く綿を広げたようなぬるでの花はしおれ、葉は茶色くなり見るからに痛々しくもう枯れるのは時間の問題というふうである。そんな時、三週間ぶりに雨が降った。茶色く枯れてしまっていると見えていた葉の所々に緑が蘇りその範囲が少しずつ増えていっている。白かった花はさすがにすべて茶色く実になることなくちじんでしまっているが私は不思議なことに気づいた。根元のほうから二股に分かれた一方の枝にだけ緑が蘇りもういっぽうの枝は茶色いままなのだ。この木は太い一方の枝を枯らして生き残る戦法なのかな─と思いながら私は散歩を続けていた。
 それからも又雨の降らない日が続きぬるでの緑もあまり増えないのを気にしていたが二日間程小雨の降った翌日ぬるでの枝に小さな緑が芽吹いているのを見つけた。それは二股になった一方の花も葉もすべて枯らした方の木で、日を追うごとに芽は春の芽吹きの折りのように枝々に噴き出てまるで命の潮がひたひたと押し寄せているように見えた。まわりのぬるでが紅葉するなかで瑞々しい緑の葉を広げているこのぬるではこれから先何十年かの命を生きていくのであろうか。私のもう触れることのない風の中で。

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