エッセイ

搗くをめぐって

公庄れい

 時代劇の中の農村風景には必ずといっていいほど水車小屋が出てくる。穀物を食べるために搗くという作業がどうしても必要だからであろう。80代以上の人なら戦時中、一升瓶でお米を搗いた経験をお持ちの方もおいでだろう。あれは案外上手く搗けたとわが亭主は言う。私が育った高野山奥の花園村の、家五軒の小さな在所にも二つの水車小屋があった。この水車はいずれも明治30年代後半に作られたそうで、それまでは唐臼といわれる足踏みの臼が家の必需品としてどの家にもあった。水車ができてからも唐臼は残っており、昭和28年の大水害の山津波で水車が流されてしまった後活用された。丈夫な材木の一端に重しのための石をくくりつけ、もう一つの端を踏んで搗くという作業を延々と繰り返して穀物を精白する。臼は大小あり、小は3升、大は5升搗けた。一臼搗くのに大体40分、二人で杵を踏めば楽だが一人で、特に体重の軽い人にとっては重労働だったと思われる。早朝から、家事や野良仕事をこなし、一家が眠りに就く頃にも、嫁は明日の飯米をつかねばならなかった辛さを聞いたことがある。
 米は搗きたてがおいしい。米の種類は勿論だが同じ種類でも作る田によって味も変わる。よく言われることだが、住んでいる土地で出来たものをその土地の水で炊いたものが一番おいしいと。スーパーで何時搗いたのか分からない遠い土地の米を買って来て食べている私たちには、もうそんな微妙な味の違いを判別する能力が無くなってきているのであろう。
 平安時代には一日に食べるお米はその日の朝に搗く習慣があったのだろうか。『源氏物語』の中に一か所米を搗く音を聞いている描写がある。
 時の帝の息子で美男子、あらゆる才能に恵まれた貴公子である源氏が、小さなみすぼらしい家に住む女の下に通っていき共に夜を過ごすのだが、源氏は顔を隠し、名も名乗らず、女もまともには顔をみせていない。それで共寝をするというのは現代人には考えられない感覚だが、上流貴族といわれる人達はおおよそ三十名くらい、その中で貴公子と自他共に許すのは数名、名を名乗らなくても衣装、薫り、物腰でおおよその見当はついているのである。女の方も、みすぼらしい家に住んではいても、雰囲気で元々こんな家に住むような人ではないと男にはわかっているのだ。その家の塀に夕顔が纏い付いていたので女は夕顔と呼ばれる。夜明がた、枕上と思える近さでゴホゴホと唐臼を踏み鳴らす音がする。その日に使う米を搗いているのであるが、うるさいなぁと思いながらもその音が何をしている音なのかを源氏も夕顔も理解していない。広大な屋敷の片隅で使用人たちが行う労働などには一切関知しない貴族の暮らしがかいま見える描写である。
 有史以前から人は穀物を搗き、搗くという行為は月の兎の伝統も生んだのであろう。

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