校門改修公金支出賠償請求訴訟

兵庫県立神戸高塚高等学校校門改修公金支出賠償請求訴訟 所薫子さん陳述書

所 薫子

 私は、中学生と高校生の子どもを持つ母親です。高塚高校の事件が起きました時に他人事ではない思いでニュースを耳にいたしました。
 事件が起きました当初は、マスコミ報道も激しく、騒々しく、その場所に行くことができませんでしたが、三ヶ月ほど後に参りました。初めてということもあって、駅から学校まで随分遠く感じられました。この道を、僚子さんは遅れまいとして走って行かれたのかと思うと、胸がいっぱいになりました。
 門の前に着きますと、レンガタイルが一面に敷かれていて、美しく、新しい学校という印象を受けました。けれど、その印象とは不釣り合いに、大きく真黒な門扉が目に入りました。手で押してみますと簡単にスルスルと動き出しました。目で見た感じよりも、ずっと軽く、片手の数本の指で動くという感じでした。これを大人の人が、両手で力一杯押せば、どういう結果になるのか恐ろしい思いがいたしました。
 次にそこへ参りましたのは冬休みで、家族皆で参りました。子どもに僚子さんの亡くなった門扉に触れさせ、人間はいつ何時、その様な間違いをやってしまうやも知れない存在であることを知ってもらいたいと思ったからです。ところがそこへ行きますと、すべてトタン板で覆われておりました。それはおよそ教育の場とは思われぬ光景で、生徒たちへの配慮も何も感じられず、冷たく、全てを拒否しているように感じました。その時、そのトタン板の覆いの中が門扉だけを残して破壊しつくされていようとは、山田弁護士より写真を見せて頂くまで、想像もつきませんでした。
 僚子さんが亡くなられたのは、門扉やその周辺に問題があったのでしょうか。もし欠陥があったとしたら全国の同じ造りの門扉は取り替えなければならないでしょう。でも、そのようなニュースは耳にしておりません。
 この門扉や元の周辺の設計や工事をされた方々は、どのような思いで壊された事実を聞かれたことでしょう。コンクリート打ちのままよりは、レンガタイルにすれば、暖かく、美しい感じが致します。造る時には、学生にとってこれが最善で最も美しいだろうと造られたことでしょう。おそらく、予算も手間もコンクリート打ちのままより数倍かかったことでしょう。それが、まさか十年もたたない内に壊されようとは、誰も考えてもみなかったでしょう。
 「教育」とはそもそも、育み、生み出し、引き出すことで、「破壊」とは相入れぬように思いますが、僚子さんの死はそれらを全て犯してでもかき消さなければならない事実だったのでしょうか。
 この一連の成り行きを外から見ておりますと、門扉が悪いと縄で縛り上げ死刑に架けるという、イソップ物語のようなものを思い浮かべ滑稽さを禁じ得ないのですが、そのように思うのは私だけでしょうか。
 これらの行方を内側から見ていた学生たちは、どの様な思いで見つめていたのでしょうか、それとも、現在の教育はそういうことにも、無感動、無関心な人間を創っているのでしょうか。
 一九九三年、一連の工事に関してわからないことが多くありましたので、県の情報公開窓口へ聞きに参りました。そこで開口一番言われましたことはーーーーー「小さな工事ですよ。小さな。私は、以前には都市開発課(正確な言い方ではないかも知れませんが)におりましたが、何兆円もの仕事をしていましたよ。二千万ぐらい小さな工事ですよ。」ーーーーーーーと。私は、驚いてしまいました。仮に二千万あったらどれだけ多くのことができるだろうか、と思いました。
 子どもの通う中学校の前は交通量の多い大変危険な道で、学校が建てられる前から陸橋を造って欲しいと地域の人達が訴えておりましたが、いつも「年度途中だから」とか、「予算がないから」とか、「課が違うから」とか、言われ続けておりました。その間中子ども達は、遠く迂回して通学しておりました。陸橋ができるまでに五年かかりました。それまでによくぞ子どもが亡くなったり、ケガしたりする事故がなかったものだと思いました。
 学校の中を見ましても、予算がないということで更衣室や部室がなく、外で着替えをしたり、図書室とは名ばかりで、ほとんど本のない学校等々、挙げたら切りがありません。そういうお粗末な施設の中で、主役であるはずの子ども達がいつも我慢させられ、それを要求すれば、我儘だと片づけられます。そして、人間であるにもかかわらず、人前で服を脱ぎ、着替えることに何の抵抗も覚えず、学習し本を読む権利があることさえも気づかされないまま、卒業して行きます。
 かたや、高塚高校の場合は、まだまだ十分使えるものを壊し、覆い隠し、余分な仮通用門を造り、門扉を溶解し、新しく門扉やその周辺を造り直す。しかも、この一連の工事はまことに性急に行われました。まるで対照的です。
 県民の公有財産を私有物のように、いえこの不況の中、たとえ個人の家や、企業でも、おいそれと使える物を壊したり、造ったりはしないと思います。
 私達は、税金がきちっと使われているという信頼の上に高い税金であっても納めようと努めるのではないでしょうか。
 立案から決裁までが、わずかの一日。書類のナンバーと日付けが前後する。同じ業者ばかりの工事が目につく等、不審な点。又、門扉や門扉周辺および、仮通用門等に使われた多額の税金。これ等は全て、静かな学校環境を取もどすために必要なことだったのでしょうか。
 事実をありのままに見せることをせずに、隠すことばかりに多額の税金を次から次へとつぎ込んで、子どもの教育のためになるのでしょうか。
 事実を事実のままに伝えることが、なぜ良くないことなのでしょうか。人間は、時にはとんでもない間違いをしてしまう。その現実に目を背けることなく、そしてそれを反省し、二度と繰り返さないようにすることの方が大切なのではないでしょうか。
 三年間も僚子さんの亡くなられた現場をトタン板で覆い、風通しの悪い状態にしてほこりをかぶったままにしておくよりも、そこをいつも皆元気に通る方が、そして、時間や決まりよりも、一人一人の生命の方がより大切なことを、現実で現わすことの方が、余程良い教育になるのではないでしょうか。
 私は、この裁判に加わらせて頂いて多くのことを学ばせて頂きました。裁判が事実を冷静に見つめ、公平に判断する場であることを目のあたりにして知りました。私の受けて来ました教育に模擬裁判等が、一度もなかったことを残念に思いました。ちょっとした子どものケンカでも、円く収めることばかりが重要視され、とことんまで、話し合ったり、互いの言い分を言い合うという教育を受けて参りませんでした。起こってしまったことに目を背けず、事実を冷静に受とめる訓練が必要だと思いました。
 私たち大人は今、正に、人間として問われていると思います。そして、二十一世紀を生きる子ども達に何を一番伝え、何を託したいのかを、問われていると思います。

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